「希望」と「不随意性」(from 『病いの哲学』)

承前*1

小泉義之『病いの哲学』から。
ガブリエル・マルセルの「希望というものは、いつも、ある生きた秩序がその十全性*2を回復することにかかわっている」「同時に他方、希望は、永遠性の肯定、永遠の善の肯定を含んでいる」(p.168に引用)という言葉を踏まえて;


希望は欲望や願望ではない。医療技術に可能なことは、希望の対象ではなく、欲望や願望の対象である。医療技術に期待できることは、医療技術に可能なことだけであり、それ以上のことでは決してない。病人の回復に医療技術が寄与する部分は必ずあるが、回復の希望は、医療技術の範囲外に関わっている。「希望において固有のことは、おそらく、いかなる技術的なものをも直接に利用したり当てにしたりできないことである」(四四二頁)*3。しかし、ここで思い違いをしてはいけない。希望は医療技術を当てにしていないにしても、医療技術は希望を当てにしているのである。回復を希望するからこそ、治療を施すのである。回復を希望しているからこそ、治療可能なことと治療不可能なことを見極めることができるのである。希望は、医療技術に見放されて病気と格闘する、武装を解かれた「非武装の人たち」の「武器」であるばかりでなく、医療を可能にして維持する「武器」でもある。だからこそ、「無防備の人の祈り」は「実効性」を有する。そして、デリダも指摘していたが、希望は計算不可能なものに関わることが気付かれなければならない(pp.168-169)。

病人の根底には、病気の根底には、計算不可能なもの、超自然的なものが潜んでいる。すなわち、計算不可能な病人の肉体の暗部、治療可能性と治療不可能性の区別を可能にしてもいる病人の肉体の暗部がある。希望はそこに関わっている。実はそこに絶望も関わっているのだが、そこはともかく、「希望の原型は、救いへの望みである」からには、根底の計算不可能で超自然的なものに救いは関わっている。では、病人の回復の希望とは、超医学的な回復、奇蹟的な治癒を乞い求めることなのであろうか。しかし、ここでも思い違いをしてはいけない。というより、よく考えなければならない。奇蹟的な治癒は起こっているかもしれないし起こっていないかもしれない。それはわからない。しかし大切なことは、奇蹟的な治癒を希望するからこそ、治療という営みが始まるということである。だから本当に考えるべきは、奇蹟的な治癒とは、いかなる出来事であるのかということである。〈癌も切らずに万病が治る〉として、問い質されるべきは、切らずに治ったとされる状態が、切って治ったとされる状態に比べて、何が超過しているのかということである。治療で到達可能なものに比べた超過分をいかに見積もるのかということである。真に奇蹟的治癒があるとするならば、その超過分は、新たなプラトー、新たな肉体の状態、新たな生を実現しているはずである(pp.170-171)。
さて、この「計算不可能な病人の肉体の暗部、治療可能性と治療不可能性の区別を可能にしてもいる病人の肉体の暗部」とは「不随意性」である。「不随意性」は、マルセルによれば、「被造物の被造性をもっとも根柢において構成しているものに対応する概念」であり、「死は、不随意性の絶対的な否定である」(p.172)*4。それを承けて、曰く、

私は手を随意に動かすことができる。このとき、私の身体は、肩の付け根の辺りで、動かされる手とそれを動かす身体に分かたれる。では、手を動かす身体は、何によって動かされるのだろうか。心身二元論に従うと、「私」「主体」の「意志」「意図」などと答えたくなる。心脳一元論や物理主義に従うと、「脳神経系」の「局所」と答えたくなる。時間を導入するなら、一時点前の心と身体の状態と答えたくなる。では、そうしたものは何によって動かされるのだろうか。これにどう答えるにせよ、第一の動かすものは、自らを動かすことによって他を動かすものであるか、端的に他を動かすものであるかのどちらかである。人間の心と身体に、前者のようなものが内在しているとはとても考えられないから、結論としては、人間には、自らを動かさずに他を動かすものが内在しているということになる。つまり、不随意的なものが内在するのであり、そうでなければ手を動かせないのである(pp.172-173)
ここから、小泉氏は「尊厳死安楽死」を「自由の根源を捉え損ねた愚かな振る舞い」として批判する;

たしかに、精神は自分の全身体を自由に処理できるようになりたいと思っている。だからこそ、不随意性には我慢がならないし、不随意性を無にする自殺や犠牲の可能性を考えもする。ところが、その精神の自由さえもが、不随意性によって支えられているし、その不随意性こそが救いへの通路になりうる。身体の自由が利かなくなることは、行為主体として生活する人びとにとっては、とても怖ろしいことである。(略)ところが、そんな人びとは、生命機能の本質を動くことに求めていることになる。動かないもの、動けないものは、ソクラテス*5がそうであったように、生き物として不完全であると判定している。
しかし、アリストテレス以来の魂論の伝統において、魂の三つの機能、すなわち、栄養摂取機能・生殖機能、感覚機能、運動機能のうち、生物を生物たらしめている魂の本質的な機能は、栄養摂取機能・生殖機能であった。実際、人間・動物・植物などのすべての生物に共通する機能は、栄養摂取機能・生殖機能である。その上で、現代において伝統的魂論に補足すべきことは、感覚機能や運動機能そのものが生物に共通する機能に支えられているということである(pp.174-175)。
病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

http://d.hatena.ne.jp/youlala/20070222と関係するか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070218/1171809771 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171910110

*2:heal(治癒)はwhole(全体)と関係し、またholy(聖)とも関係している。

*3:マルセル『存在と所有』からの引用。

*4:とすれば、「不随意性」は生の本質に関わっていることになる。

*5:ソクラテスに関しては、この本の第一章、特にpp.34-37、pp.43-48を参照のこと。