感覚動詞とか

慧遠さん、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169521302に対するいつもながらの情報量たっぷりのコメントありがとうございました。また、私のエントリーとしては例外的ともいえるブックマークを頂いたのですが*1、その中でもクリプキヴィトゲンシュタインに言及したものがあった。
さて、ブックマークの中に「「信じる」が「〜に見える」でも同様」というコメントがあった。これについて少し思うことがあるので、少々無駄口を叩く。多分、この2つはデカルト以降の近代哲学的にいえば、「同様」というか同等のものなのだろうけど、そもそもは違うと思う。英語でいえばappear。これは形式上、一人称文にはならない。非人称かモノを主語とした三人称。字義的にいえば、それはあるモノ(或いは性質)が(私に)現れている状態。但し、中立化変様(neutralized variation)を施されているか、判断以前或いは主語としてのIが存立する以前の(西田幾多郎風にいえば)「純粋経験」の状態。その意味で、feel、sound、taste、smellといった感覚動詞に通じるところがある。ところで、doxaは現在では憶見などと訳されて、真理(認識)としてのepistemeよりも低い地位に置かれている。しかし、doxaとはそもそも〈私に現れるもの〉、つまりappearanceの謂にほかならなかった。doxaを貶価することによって、所謂哲学が確立するわけだが、それでも真理は観照(theoria)という所作において自ずと現れてくるという考え方は後々まで保持されていた。それが根本的に変わるのがデカルト以降ということになる。それ以後、真理にはたんに対象を眺める(観察する)のではなく、対象を加工すること、実験することによってしか到達できないとされるようになる。換言すれば、観ること、現れてくることを素朴に信憑できなくなったときに、私たちの知の近代化が始まったということになる。
ところで、


”This is a pen.”の前に”I believe that”のかわりに”She believes that”を付け加えるとどうなるか。または、文脈依存度の高い代名詞のかわりに固有名詞を付け加えてみるのはどうか。たとえば、”Herbert Paul Grice believes that this is a pen.”という例文で、動詞believeの振る舞いはどのようなものか。
http://d.hatena.ne.jp/trivial/20070124/1169646167
三人称或いは二人称の信念文というのが(通常の文脈で)真偽が取り敢えず決定可能という意味での有意味な文として存立するのかどうかというのは以前から疑問だった。勿論、小説の中の登場人物について使用されている場合、登場人物にとって小説家というのは創造主(デミウルゴス)なので、それはOKだろう。しかし、私たちが日常的に発話の相手や赤の他人について、believeという動詞を使うのはどうか。これを考えながら、日本語の「たい」という助動詞を思い出していた。


私はセックスしたい。


という文は文法的に正しい。しかし、


彼女はセックスしたい。
あんたはセックスしたい。


は誤りである。ただ、


彼女はセックスしたいのかな。
彼女はセックスしたいのかも知れない。


と疑問や推量のかたちにすれば正しくなる*2。三人称或いは二人称の信念文にはこれと似た問題があるように思うのだが、その先は考えていない。

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169521302

*2:「たい」については、「日本語教育能力検定試験」の記述式の問題に出たことがある。それに正解したかどうかはわからないが、ともかく「能力検定試験」には合格した。