労働の労

http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8d3ed399a710e9a11bbde6c021e08efeに曰く、


労働とは、労わって働くことと書く。「いたわる」は大事にするということだ。「働く」は、動き回る、活発に動くという意味だ。
たしかに「労」という漢字にはいたわるという意味があるが、「労」という字から連想するのは、専ら苦労、心労、辛労、疲労、つまりつかれるという意味の方だ。労咳という言葉もあったぞ。労働の労がどちらの意味なのかは知らない。因みに、労働の働という字は日本で発明された字であり、近代になって中国に逆輸入されたが、いつの間にかに使われなくなって、現代の中国語では労動と表記する。
ところで、Arisanが「労働の魅力とは」と題して、

「主体」が社会への参加とか貢献の感覚を得るためということなら、ボランティア活動とか、それこそ政治的な「運動」でもいいはずである。また、芸術やスポーツのような表現活動というものもある。貢献の感覚や社会的な自己実現をどういう活動の場で実感するかということは、ふつうに考えれば、その人が「社会」というものをどのように意識しているかによるだろう。「仕事」(賃労働)よりも、他の活動にこそそれを見出すという人は、少なくないはずである。

所得の分配にプラスアルファされる何かを得るために分配される社会的な活動の場は、なぜ「労働」でなければならないのか。「労働」には、他の活動とは異なる、人間の社会性にとって特別な要素があるのだろうか。


考えられるのは、まさにそれが市場での「売る/買う」という行為に関わっているということである。

労働を通して自分が作ったものが商品として売れることにより、つまりお金に換わることによって、その人は社会のなかで広く「認められた」という感じをもつ。また、そういう技能や能力を持つ人間として契約し雇われることにより、やはり社会から広く「認められた」という歓びのような感じをもつ。

これが、「労働」が人間にとってある特殊な魅力をもつ活動であることの中味である。

(趣味としての)芸術やスポーツとやや異なるのは、ここに「お金」が介在しているということで、それにより、この人は「社会全体」から薄くはあるが広く、一般的に承認(評価)されたという感情をもつことができるのだ。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20061220/p1

と書いている。
ここで言われている労働というのは、アレントが言う、vita activaの中でworkやactionと対立するlaborのことではなく、所謂賃労働(wage labor)のことである。そして、「労働」は「自己の存在が他人から承認される」ための「非常に有意義な一形式」だという;

有意義だというのは、コンビニエンスだということだ。

特別な才能や魅力や政治力がなくても、「労働」をとおして、多くの人は社会のなかで自分を確認できる(この場合の「社会」というのは、結局「市場」ということだが)。

そして、この点が大事だが、その社会参加の代償として、特別に強固な集団への帰属を要求されることもない。いや、「本来はないはず」なのだ(新自由主義の社会には当てはまらないかもしれない)。

多分、近現代社会においては、多くの人がそう思っているのだろう。また、賃労働によって「社会のなかで自分を確認できる」ということ、それは賃労働ではない、自分自身とか親密な者のために行う家事労働が蔑まれることに繋がる。
では、そのような差別に繋がることなく、賃労働を擁護することはできるのか。Arisanの「その社会参加の代償として、特別に強固な集団への帰属を要求されることもない」ということにヒントがあるのかも知れない。金を貰うことによってエクスキューズを獲得できるということか。或いは、クサいドラマの台詞にありそうではあるが、身体は売っても心は売らないということか*1
賃労働ではなく、アレントのいうlaborだけど、その意義は多分無秩序を矯めるということとも関わっている。エントロピーを減少させることといってもいいかもしれない。或いは〈すっきりする〉こと。むしゃくしゃしたときに、唐突に皿を洗ったり掃除をしたりすると、気が晴れる。勿論、長期的に見れば、エントロピーの法則には逆らえないわけで、掃いても拭いても、すぐにまた埃は溜まる。

*1:「労働」する者を雇う側からしても、100%善意&熱意のヴォランティア相手だと、良心が咎めて、安んじて叱りつけることもできないんじゃないか。