「労働」、「消費」、そしてハンナおばさんの復習

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20080402


matsuismさんが『ブルータス』に載った内田樹氏のインタヴューを採り上げている。もしかして、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080219/1203440787で言及したものか*1。実物を読んでいないので、あれこれ論うのは控えるべきなのかもしれないが、matsuismさんが引用している一節は興味深いとともに、ちょっと頭を傾げさせる;


 「労働」は「消費」とまったく違います。時間に関わる仕方が違うのです。

 消費主体は、消費する前に、自分が何を欲しているのか、どのようにして商品を手に入れるのか、その結果どのような事態が生じるのかについて、ほぼ完全に予知しています。予知できなければ、そもそも消費行動を起こさない。そして、消費行動が浮かんでから、消費行動が完了するまでのタイムラグは理想的にはゼロであることが望ましい。「欲しい」と思った瞬間に商品が届く。消費の理想は無時間モデルです。

 労働は逆です。自分が何を作り出すのか、どのようにして作り出すのか、その結果何が起こるのか、予知することができません。 労働の動機やプロセスやその意味はむしろ「回顧」されるものです。

 労働はその営みを終えてしまった後でなければ、自分が何をなし遂げたのかが分からないように構造化されています。

先ず、ここで内田氏が「消費」の時間的パースペクティヴとして語っているのは、通常(というかアリストテレス以来)寧ろ「労働」の時間的パースペクティヴと見做されているものではないか*2。たしかマルクス海狸と下手な人間の大工の違いは何かということで、後者は頭の中に自分なりの設計図というか完成予想図を仕込んで仕事をするというようなことを言っていたが、アリストテレスの言葉を持ち出せば、「労働」には〈形相因〉が不可欠であろう。凡そ「労働」というか製作(ポイエーシス)は形相因を素材に投影しつつ素材を加工し、完成品として客体化(現実化)するということになるだろう。「自分が何を作り出すのか、どのようにして作り出すのか、その結果何が起こるのか、予知することができません」というのでは困る。やはり設計図通り、仕様書通りに仕上げてもらわなければ困る。さて、「完了するまでのタイムラグ」だが、これは素材、さらには素材だけでなく、私にとって環境として現われる世界の中の諸々の〈他者〉の抵抗によるものだろう*3。「労働」が〈形相因〉の現実化を目的とする以上、こうした抵抗は不可避であるとはいえ、「理想的にはゼロであることが望ましい」。ここに生産、作業の合理化の動機が生じる。
「消費」における時間的パースペクティヴはどうだろうか。matsuismさんによれば、内田氏がここでいう「消費」とは「購買」行動のことだというが、それは普通私たちが理解している「消費」の(必ずしも必要とはいえない)始まりにすぎないだろう。だから、内田氏に反して、究極的には〈時間の消費(kill time)〉であるような享受としての消費についていえば、何が起こるのか(つまり、何を消費するのか)がわからないことが理想的には望ましいこともあるといえる。例えば、小説や映画を消費することを考えても、消費する前にネタばれすると興醒めになってしまうことがあるのは、〈何を消費するのか〉が事前にわかってしまうからだろう。
さて、内田氏が「自分が何を作り出すのか、どのようにして作り出すのか、その結果何が起こるのか、予知することができません」といっているのは、「労働」というよりは(アレントがいう意味での)「行為(action)」の特性であるといえる。『人間の条件』からお浚いしておくと、アレントは私たちの生をvita contemplativaとvita activaに分けたが、vita activaはさらに「労働(labor)」、「仕事(work)」、「行為(action)」という側面に区別される。「仕事」が素材を加工して、モノを作り出すのに対して、「労働」は寧ろ或る種の不均衡(エントロピーといっていいかもしれない)を除去することを目的とする。例えば、汚れを除去するための掃除や洗濯、空腹を除去するための炊事。因みに、アレントによれば、「労働」の産物と違って、「仕事」の産物は使用されることはあっても消費されることはない。さて、「行為」において「その結果何が起こるのか、予知することができません」というのは、「行為」が対等な人間間に生起する出来事であって、モノを相手にする「仕事」とは違って、そこに主体-客体関係とか目的‐手段関係を適用することはできないからである。私たちは対等な関係において行為する以上、そこでは〈主体〉であることはできないのである*4。ところで、「労働」と「行為」には似たところもある。「行為」は「仕事」と違って、何か実体的なものを生み出すわけではない。「行為」は「行為」を生み出すといえるが、「行為」からは派生的に言説が生み出され、また結果的には制度が生み出されるのだが、「行為」のこうした成果が目に見えるものとして示されるためには「仕事」に頼らざるをえない。
The Human Condition

The Human Condition

内田氏がいう経済における「タイムラグ」=「ゼロ」への「シフト」であるが、「労働」或いは「仕事」の純化とも言えるだろう*5。また、この問題については、既に1980年代にガヤトリ・スピヴァクが論じていたことは指摘しておく(See In Other Worlds)。
In Other Worlds: Essays in Cultural Politics

In Other Worlds: Essays in Cultural Politics

 

*1:また、http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080406#p1田中秀臣氏が酷評しているもの?

*2:この段階では、まだ労働/仕事というアレント的な区別は捨象しておく。

*3:常世界を「ワーキングの世界」として捉えたアルフレート・シュッツの議論(”On Multiple Realities”)も参照されたい。

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061031/1162269189 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070321/1174455126

*5:高度な分業において、現場において、また労働者の主観的なリアリティにおいて、「仕事」が「労働」と化していること、逆に本来「仕事」ではありえないこと、例えば自己への関係とか恋愛とかにおいて、「仕事」をするように求められているということに関しては、ここでは論じない。