坪内祐三の言葉

早稲田文学』という雑誌がフリー・ペーパー『WB』に変身したということは知っていたが、実際に手にしたのは初めて。その11月号に重松清坪内祐三の対談が載っていた。そこから少し書き写してみる;


[坪内]いまは情報にとにかくアクセスしやすいよね。ネットだけはなく、たとえば音楽にしても、昔だったら歌謡曲から入ったでしょう。それがロックに行っても、最初はありきたりなヤツなんだけど、だんだん自分のなかでジャンルが深まっていって、それなりのレコード屋に行かないと買えないのを探すとか、どんどんどんどん学習していく。でも、いまはそういう学習をしなくても、直接かなり深いレベルに行っちゃうじゃない? だからそれが幸福なことか、不幸なことかはわからないけど。
[重松]たとえばどんな?
[坪内]福田和也さんのゼミに、「すごくボブ・ディラン好きな学生がいて、彼のリクエストで坪内さんに話してほしいんだけど」って言われて授業に行ったんだけど、その彼がすごくディープなわけ。オレなんかよりずっと詳しいの。僕らのころだと、ディランってまずプロテストソングのひととして知るじゃない? それが次第にロックになり、エレクトロニックになって……みたいな。でも、彼らそういう段階を踏まないで、いきなりボブ・ディランと(アメリカン・)ルーツ・ミュージックの関係なんか語れちゃう。ロバート・ジョンソンからの影響にしても、僕らのころはそのレコードが日本で手に入るかどうかみたいな感じだったから、ディランとの関係なんてグリル・マーカスあたりを読んでいかないと見えてこない。でも、いまの若いひとたちだと、ディラン好きになって3カ月後にはディランとブルースの関係とか、ルーツ・ミュージックの関係をコアに知ってるし、レコードも手に入れられちゃうからね。
[重松]「変遷」とか「変貌」とかのプロセスを、困惑したり意外に感じながら受け取っていくんじゃなくて、一気に「歴史」にアクセスしちゃう感じですよね。
[坪内]ちょっとかわいそうですよね、「発見する喜び」がないから。映画でも、僕が大学3年か4年ぐらいのときにようやく家庭用ビデオが普及してきたけど、まだ高くて買えない。しかもソフトの数は少ないし、いわゆる古典的名画、例えば50年代60年代のヒッチコックの映画なんか名画座やシネマライク*1でも上映されることはなかった。だから『めまい』とか『裏窓』がすごいと蓮實(重彦)さんとかが言ってても、実際には観ることができないから、晶文社が出した『映画術 ヒッチコックトリュフォー』(1981)っていうデカイ本を読んで、妄想を膨らまして観た気になる(笑)。いまはヒッチコックなんて序の口で、なんでもDVDで手に入るでしょう? 小津安二郎なんか、残されてる作品がぜんぶDVDになって、次は成瀬(巳喜男)で今度は溝口(健二)だ、みたいな。昔だったら、「小津が好き」とか言っても、5本以上観るにはそれなりに手間暇かけないといけなかったんだよね。
[重松]ということは、「体験」がなくなっちゃてるのかな。映画館に行くとか、雑誌を探すとか、そういう体験ぬきで知識が手に入る。「頭でっかち」という意味じゃないんだけど……。
[坪内]身体性がないよね(p.23)。
ところで、重松さんが「フリーペーパーって国会図書館とかで収集保存してくれるのかな」(p.24)と疑問を呈している。「国会図書館」の場合は、納本すれば「保存」してくれると思うけれど。一般の図書館の場合はどうなのか。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061211/1165804954 で言及したhttp://oneday-inthelibrary.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_ab2f.htmlを書いた方が勤務する図書館では「雑誌、高額の参考図書、マンガ(コミックス)自費出版本など個人的なものや流通にのらないもの、AV資料などのリクエストをお断りしています」ということらしい。これは「リクエスト」に応えるか否かに関しての方針であって、図書収集に関する方針ではない。ただ、思うに図書館が収集すべき資料としては、値段が付いて流通している本もさることながら、非売品として流通しないものの方が重要であるような気もする。