「自己」を巡りて−−内田樹/南直哉

内田樹氏と南直哉という禅僧の方の対談;


 「「本当の私」というフィクション」『波』443


内田 自分自身の中には無数の層がある。どれが本当の自分かなんて決められないし、自分でそんなものがあることに気づいていないけれど、世間からは丸見えの欲望だってある。そういう無数の要素の総体として他人は僕を見ている。僕にそれをコントロールすることなんかできるはずがない。
南 「自分探し」で悩んでいる人の多くは、自己イメージと自分は一致していて当たり前で、ズレているのがおかしいと思っている。しかし私は、そのズレこそが私の存在領域で、もっと言えば、ズレ自体が私だと言いたいぐらい。一致していると考えること自体が不思議に思います。
内田 朝起きたとき、朔日の自分と今朝の自分は同じかと悩む人はいませんけれど、実際には健康状態も感情も思想も一夜でずいぶんと変わってしまっている。でも、みんな昨日の自分と今の自分が同じ人間であると思って怪しまない。自己同一性というのは、自分じゃないものと自分を同じものだと思い込んで平気でいられる能力のことだと思うんです。
南 しかも昨日の自分と今の自分を一致させることは、他者から立ち上がる欲望ですよね。それをわざわざ引き受けている。私は自己であるということは課せられているもの、刑罰みたいなものだと思っています。なのに、わざわざ自分からそれを探すということは、自虐の極みだと思いますよ。でも、自虐せざるを得ない理由もわかる。おそらく、ある根源的な痛みを別の痛みで代償しているんだと思います。先ほど申し上げたでしょう、存在することは損傷だと*1。この痛みが消えないとすれば、別の痛みで代償するか、元の痛みに気づかないようにするしか道はない(p.55)。

*1:p.52