テレーム/パノプティコン

承前*1

慧遠さん、詳しいコメントどうもありがとうございます。

さて、的場昭弘『ネオ共産主義論』の第2章「共産主義のルーツはどこにあるのか」で、フランソワ・ラブレーの『第一の書 ガルガンチュア物語』

が言及されている(pp.85-88)。その「テレーム」修道院について曰く、

(前略)ここには支配者も壁もなく、すべてが自由です。禁欲意識と未来に向けての救済意識によって支配される千年王国論的な発想さえも超越しています。その一方で、ここは物的豊かさを求めるという無限の欲望のイデオロギーが支配する空間でもあります。そして、そのために物的支配ではなく、イデオロギー支配という巧妙な概念装置を使っている点で、この修道院は、それ以後のユートピアと明らかに区別されます。しかし、支配するのはイデオロギーであるだけに、人々は支配されているという意識をもちにくく、それゆえに巧妙なシステムであるということができます(p.87)。
また、「共産主義的な支配装置の一側面−−徹底した洗脳と、それによる自由の制御−−は、このテレームに起源をたどることができるといっていいでしょう」といい、その後のベンサム考案のパノプティコンの「モデルの基礎」(pp.87-88)だという。曰く、

ベンサムの牢獄は、六角形で中央に監視装置があり、ここから人々は監視を受けます。テレームでは、監視するのはイデオロギーそのものです。ここから出て行く者はいません。なぜなら、こんなすばらしい世界を捨てる人間などいないからです。しかしそこには、イデオロギーによる洗脳という仕掛けがあるのです(p.88)。
さらに、「テレーム」/パノプティコンの全域社会化の表現として、ソルジェニーツィンの『収容所群島』とオーウェルの『一九八四年』が言及されている(ibid.)。
このような解釈がラブレー解釈として広く認められたものなのか、またラブレー研究ではなくて社会思想史においては常識に属するのか、私はラブレー解釈といえば訳者の渡辺一夫或いはせいぜいバフティン止まりなので、よく知らない。ただ、「自由」という命法が不自由をもたらすというパラドクスということなら、思考するに値することだろうとは思う。
さて、「テレーム」修道院のモットー「欲することをなせ」をアレイスター・クロウリーも掲げていたということをどこかで*2読んだことがあったが、よく思い出せない。