仏蘭西語

 内田樹氏曰く、


かつては文学部の看板学科だった仏文科の廃止が続いている。
神戸海星女子大に続いて、甲南女子大も仏文科がなくなる。
東大の仏文も定員割れが常態化している。
理由はいくつかある。
英語が「国際公用語」の覇権闘争に勝利して、事実上のリンガ・フランカになったこと。
フランス自体の文化的発信力が衰えたこと。
文学についての知識や趣味の良さを文化資本にカウントする習慣が廃れたこと。
語学教育がオーラル中心にシフトしたこと。
などが挙げられる。
http://blog.tatsuru.com/2006/12/01_1257.php
筑摩書房のPR雑誌『ちくま』(429)で、仏文学者である菅野昭正氏の「受験極楽」を読む。その中で「一九四三年、文部省の決定した高校の外国語科目改変に関する浅慮の国策」について言及されている。曰く、

ドイツは同盟国だからドイツ語は安泰、英語は真正面の敵性語学なのに流通範囲のひろさが買われたのか、授業時間の削減で片がついたらしい。しかるに、フランス語は敵性語である上、軟弱、頽廃的などと汚名を着せられたのか(それには、アヴェック、ランデーヴゥなどが歪められて濫用されたり、デカダンスのような健全な戦時風俗を壊乱する不穏な語が、幅をきかせていると買いかぶられたせいもあったのだろう)、いちばん厳しい受難に曝される。当時、フランス語を履修することができた高校は七校(高校の数は私立をふくめて全国で三十六校)、そのうち最上位の一高と三高については、辛うじて存続が認められたが、他の五校では(浦和はその部類)、完全に廃止されることになった(p.52)。
引用した部分も含むこのテクストの後半は菅野氏の仏蘭西語の師匠であった平岡昇の回想に費やされているのだが、また曰く、

教えるべき科目を奪われた平岡先生は、こうして退職を余儀なくされる。いわば敵性語学を教えていた罪を負う流謫の身となり、福島県の山間の農業の学校の国語教師として、戦争末期の日々を過ごすうちに、敗戦が来る。だが、受難はすぐ解かれず、私たちが[浦和高校に]願書を出した[1946年]春三月の頃、原状はまだ回復していなかった。それから六月までのあいだに、先生の復職とフランス語の復活が半分だけ決定される。半分というのは、フランス語を第一外国語とするクラス(文丙)は開設されず、文甲の第二外国語として、フランス語が選択できる変則的な形にとどまったからである(ibid.)。
ところで、仏蘭西とはいっても、ヴィシー政権は「同盟国」であった筈だが、やはり意識の上では〈敵〉であったわけか。