http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/post_591.html
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/post_590.html
また
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2008/11/post_523.html
たしかに従来の「訳読」法がまずいということはその通りなのだが、それに対置される「コミュニケーション重視の外国語教育」というのも、それがそんなに画期的なものだとは思わなかった。また、ここで無視されているのは日本の英語教育における暗黙の分業だろう。公教育で「訳読」法をやって、市中の英会話学校では「コミュニケーション重視」をやる。お互いの縄張りは荒らさず、平和的に共存している。勿論、この2つは教学内容においても相互補完的なのであって、英会話学校では例えば代名詞の格変化(I,my,me,mine)とか動詞の活用は教えてくれない。そういうのは、公教育で習得しているという前提の上で、「コミュニケーション重視の外国語教育」を行っているわけだ。
画期的なものだとは思わなかったのは、そこに「内容主義的意味概念から機能主義的意味概念への転換」(鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』、p.246)が見えなかったからである。この転換なくして、organizational competence重視からpragmatic competence重視への転換とは言えないのではないか。実際、日常生活に即した言葉の習得の必要が逼迫している外国からの移民に対する語学教育においては、「機能主義的意味概念」に基づく教科書が作成され、授業が行われている筈だ。
ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)
- 作者: 鬼界彰夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/07/19
- メディア: 新書
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ところで、
「論説文」はともかく、「文芸もの」、例えば小説における特権的なテーマは恋愛であって、また思春期というのも文学の特権的なトポスとなっている。だとすれば、「中学生や高校生にはもともと理解がむずかしい」どころか、却って身近に感じるのでは? そもそも小説の多くの部分は日常会話であって、英語での恋愛の駆け引きも学べるとしたら、それこそ「コミュニケーション重視の外国語教育」じゃん。中学段階で基本的なパターンや文法事項を習得したら、高校段階の英語教育では小説を読むのに費やしてもいいのではないかとも思うのだ。別に「訳読」する必要はないけれども。
そもそも訳読の対象というのは、だいたいがこむずかしい論説文や文芸もののたぐいですが、こんなものは実社会との距離が遠い中学生や高校生にはもともと理解がむずかしいという問題があります。また、この手のものを理解しようとなると、どうしても、普段のコミュニケーションでは縁遠い、低頻出語彙をおさえねばなりません。そうとすれば、中学、高校のうちは、「読み書きそろばんができればいい」という発想で、基本的な英語コミュニケーションに不可欠な基本単語の運用法に集中し、むずかしいものを読むのに必要な社会人のためのコアボキャブラリーないしは Academic Vocabulary は大学に入ってからというのが順序というものではないでしょうか。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/post_590.html
とも書いていた。
社会学、経済学或いは哲学専攻でも外国語の文献を読む。しかし、そこで慣れ親しむのは、(例えば仏蘭西語だったら)仏蘭西語一般ではなくて学術論文の仏蘭西語でしかない。小説を精読することで培われた語学力というのはとにかく凄いものでありうると考えている。それは小説というメディアそれ自体の性質による。小説には当該の言語(langue)に属するありとあらゆる言葉が集まっていると思われる。単純な話、小説の多くは地の文と会話から成り立っているので、小説を読めば、書き言葉も話し言葉も知ることができる。さらには、上流階級の言葉と下層階級の言葉、都会人の言葉と田舎者の言葉、男言葉に女言葉、老人の言葉にガキの言葉、政治の言葉に経済の言葉、さらにはセックスの時の喘ぎ声等々。「文学教育」としては邪道なのかも知れないけれど、語学教育の一環としての小説の精読というのはかなり有効なのではないかと思うのだけど、どうなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070220/1171981896