「ポピュリズム」の対極として(冷泉彰彦)

承前*1

冷泉彰彦*2ノーベル文学賞カズオ・イシグロという選択」http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2017/10/post-947_1.php


曰く、


今年の場合は、何よりもブレグジットやトランプ現象といったアンチ・グローバリズムや排外主義など、偏狭な感情論に支配された世相を前提に、「文学とはこれらに対抗するもの」というメッセージ性が期待されていたと言えます。事前の予想1位は、ケニアの抵抗文学者でアフリカ人の言語と文化のアイデンティティー擁護を訴えたグギ・ワ・ジオンゴ氏だったのは、ある意味で当然でした。

グギ・ワ・ジオンゴ氏が受賞すれば、1993年のトニ・モリソン氏(アメリカ)以来のアフリカ系作家、そしてアフリカのアフリカ系作家の受賞としては1986年のウォーレ・ショインカ氏以来となるはずだったからです。

そして、村上春樹氏も事前には「予想2位」につけていました。ですから、もしも村上氏が受賞していたら、恐らくは「壁」という問題にからめた解説なり評価がされた可能性が濃厚です。というのは2009年にイスラエルで行われたエルサレム賞の受賞式で、村上春樹氏は「卵と壁」*3というスピーチを行っているからです。この「卵と壁」のスピーチはイスラエルパレスチナの和解を呼びかけたものですが、仮に受賞していたら「トランプの壁」との関連性で論じられることになっていたでしょう。

村上氏の文学ということでは、日本では自身が学生運動に距離を置いていたことなどから、非政治的文学という読まれ方をすることが多いのですが、欧米では、特に近作の『1Q84』がジョージ・オーウェルの『1984』への、かなりストレートなオマージュとして受け止められ、管理社会への告発といった政治的な観点から関心を持たれていることもあります。ということで「壁」に加えて「管理社会」の問題など、村上文学を政治に引き寄せた形での評価になっていた可能性が大きいわけです。

ですが、審査員たちの選択は全く別でした。感情的なポピュリズムの嵐が吹き荒れる世相に対して、文学が立ち向かうには「ポピュリズムとは正反対の深く沈潜する純粋な美学と、知的な言葉」だという、まさに文学の本質に戻ろうとした――今回のカズオ・イシグロ氏の受賞はそのような受け止め方が可能です。

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

イシグロが「ポピュリズム」の対極というのはその通りで、冷泉氏のテクストの後半部でイシグロの言語についての考察が展開されるのかと思っていたけれど、そういう展開はなかったので、些かがっかり。
イシグロの小説は「読みやすく、読者の感情に直接訴えかける」と評した人もいる*4。「読みやす」いのは、殊更なメタ文学的仕掛け、哲学的仕掛けを使っていないということなのだろう。しかし、その言語を巡っては、ちょっと留保をつけなければいけないのでは? 端正で典雅な英語。彼が「正統派の文芸作家」と言われるのはその英語故でもあるだろう*5。それは、他方では、この「ポピュリズム」のご時世においては、鼻持ちならないエリート主義として非難の餌食になるヴァルネラビリティなのかも知れない。また、別の面から見れば、かつて怪盗ジャン・ジュネが典雅な仏蘭西語を盗んでしまったように、典雅にして正統的な英語は日本生まれの男に盗まれてしまったといえるかも知れない。グローバル化のパラドクスとして。
ところで、冷泉氏に限らず、ノーベル賞銓衡委員会の意図を裏読みするというのは広く行われているようだ。まあ知的なスポーツとしては面白いかもしれないけど、それ以上の意味があるのかどうかはわからない。文学賞に関して言えるのは、取り敢えず以下の3つの基準くらいだろうか。先ず、最もハードルが高いのはスカンディナヴィア(瑞典、諾威、丁抹)の作家たち。安易に選ぶと、身内贔屓! という突っ込みが入るのは必至。英語や仏蘭西語以外の作家の場合、またスカンディナヴィア以外の作家の場合、どんなに優れていても、英訳や仏訳がないならば、候補になるのも難しいのでは? さらに、lost in translationのリスクが大きい詩人は散文作家よりも難しいのでは?