「水伝」或いはcommonsenseの問題

去年ちょろっと「水伝」に言及していたことを想い出した*1
「水伝」については、田崎晴明氏による批判サイト*2が最近話題になっているらしい。これも踏まえて、「水伝」を巡って、


 確かに無無謬主義は「俺の言うことは100% 完全に正しく、疑うことは許さない」といった種類の主張を禁止するものであるので、時と場合によっては一見トンデモだからといって頭から否定するのはよくないといった意味合いにもなりうる。ただしそれは程度の問題である。現実の理論は科学的かトンデモかの2つに1つにスパッと分けられるようなものではなく、


もはや誰1人として疑いえないほど強く検証されている主張(地球は丸いとか)
かなり検証されているが誰も疑いえないほどではない主張(大気中の炭酸ガスが増えると地球が温暖化するとか)
まだ何とも言えない主張(電波に晒されると白血病になる確率がいくらか高まるとか)
かなり論破されているが信じる人もいないわけではない主張(多くの動物は地震を予知しているとか)
もはや誰1人として信じられないぐらい徹底的に否定された主張(太陽は生贄の血で動いているとか)


といった具合に非常に幅広いスペクトル上に分布している。たとえば「ケータイの電波でガンになる」という主張をトンデモの一言で切って捨てることは慎むべきだとは言えるかもしれないが「生贄の血が太陽の動力になっている」かどうかについて同じルールを適用するのはただのナンセンスである。もう一度言うが程度の問題である。水伝はどちらかといえばケータイ電波よりは生贄の血の方に近い。ただとんでもないのではない。ものすごくとんでもないのである。
http://tkido.blog43.fc2.com/blog-entry-215.html

という意見あり。
あるトピックが検証に値する問題なのか検証に値しない「トンデモ」かどうかは、それぞれのscientific communityにおいて「暗黙知」として共有されている(と思われている)commonsenseによって決定される。勿論、commonsense或いは共同体にはさらに本源的なものがある。自然言語という共同体。自然言語のユーザーが共有する(と思われている)commonsense。何故本源的かといえば、自然言語が現実的に究極的なメタ言語として機能しているわけだし*3自然言語のユーザーになること、つまり自然言語という共同体に参与することは、社会化つまり社会一般への参与とほぼ同義である*4。何よりも、科学論文にしても文学作品にしても宗教的な説教にしても、自然言語によって書かれている。また、現実に存在する自然言語は(全く自明なことかも知れないが)科学等々の浸透を常に既に被っている。「水伝」が「トンデモ」だというのは科学者の特権ではなく、既に自然言語の準位のcommonsenseの問題である(と思っていた)。しかし、実際にはそのcommonsenseに亀裂が走っていたというわけだ。よく考えれば、commonsenseが存在するということだって、話がなんとなく通じたという経験によって事後的に、且つ消極的に確認されるようなものでしかないし、commonsenseが存在しない、つまり話が通じる余地は全くないと想定してしまったら社会への参与が不可能になるので、取り敢えず在ることにしておこうというくらいものでしかない。
米国やイスラーム圏を中心とした〈原理主義〉にしてもそうなのだが、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061101/1162378555で言及した小堀桂一郎の思考でもそうなのだが、「水伝」の提唱者やそのフォロワーたちには、藝術、科学、宗教、道徳etc.という諸領野がひとつに統合されずに併存している状態という意味での〈近代〉に対する苛つきがあることはたしかだ。これについて本格的に論じることは勿論できないが、ひとつ指摘しておけば、群雄割拠的状況の統合という野望は、もし実行されれば、統合どころか、それぞれの領野を致命的に損なってしまうリスクが高いということである。もしかして、「水伝」の提唱者やそのフォロワーたちにはある種のアニミズムへの憧れがあって、自然のスピリチュアルな尊厳を恢復させたいという願いがあるのかも知れない。しかし、実際の効果は自然(水)の人間的主観性への服従であって、そこでは自然の超越性は決定的に損なわれている。さらにいえば、この人たちは決して水に出会うことはない。この人たちが出会うのは水に投影された自分でしかないからだ。うっかり忘れていたが、何処へ行っても自己にしか出会わないというのは近代の主要な実存的境位ではある。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050623

*2:http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

*3:納得するという心的出来事について再検討しなければならない。

*4:現実の社会生活ということでは、自然言語に次いでマネーという共同体が重要だろうか。