生きている水伝

長野剛「イジメは脳が傷つくからダメ…!? 「科学」を使う道徳授業ってアリ?」https://withnews.jp/article/f0170822002qq000000000000000W05x10101qq000015699A


そもそも科学的根拠の乏しい、或いは怪しい「脳科学」の知見を「根拠」に「道徳」の授業を展開している小学校の先生がけっこういるという話。また、あの〈水伝〉*1もまだしぶとく生き残っているのだという。


「水に良い言葉で語りかけるときれいな結晶ができる」という話を題材にした道徳教育もあります。これは2000年代、多くの科学者から「間違っている」と指摘され、批判もされているので、ご存じの方も多いかもしれません。

 この問題に詳しい文教大学教授の長島雅裕さん*2によると、この授業の原型は1990年代末に書かれた本です。

 「ありがとう」などの「良い」言葉を見せた水と、「ばかやろう」などの「悪い」言葉を見せた水をシャーレ(実験用小皿)に少量とり、−5度の部屋で観察すると、水が凍った氷の先に「水の結晶」ができ、良い言葉をかけた結晶は美しく、悪い言葉の結晶は汚くなる、という内容。だから「きれいな言葉を使おう」と結論します。

 長島さんは「水が言葉に反応することはありえず、もちろん間違いです」と語ります。最も盛んだった00年代には、1自治体で2割の学校で使われていた、という報道もあったそうです。

 この授業は今も、続いているようです。福岡県内に住む大学生は今春、バイト先の塾で生徒から「水にありがとうと言うときれいな結晶が出来る、と授業で聞いた」と言われ、「まだやっているんだ」と驚いたといいます。

 この学生さん自身、中学時代に全校集会で校長先生から同じような話をされました。「先生が言うぐらいだから本当だろう」と一時は信じましたが、その後、真実ではないと知りました。「こんな話でだましやがって」。先生への信頼が崩れた、と振り返ります。

〈水伝〉の教訓は下手に科学的たろうとすると却ってトンデモに陥るということだろうか。

間違っている、間違っていないにかかわらず、道徳の授業に「科学的事実」を持ち込む是非って、どうなんでしょう? 「脳科学」でお話を伺った名古屋大の大平さん*3は「違和感を覚えます」とおっしゃいました。

 そこで、道徳教育に詳しい教育哲学者の長崎大学准教授、山岸賢一郎さん*4に伺いました。まず、科学として間違っているものを根拠にした道徳教育って、どうでしょう?

 「端的に言って、道徳的ではないのでダメです。意図的ではないにしても、結果的にウソになることで児童生徒を言いくるめよう、っていうのは道徳的じゃないですよね。教育基本法も、教育の目標のひとつに『真理を求める態度を養う』ことを掲げているわけですし」


では、科学的に全く正しい「事実」に基づく道徳授業はどうでしょう?

 「哲学の世界では知られたことですが、『○○である・でない』と『○○すべきだ・すべきでない』の間には絶対に埋まらない溝があります。つまり、科学が教えてくれる『である』をいくら積み重ねても、『すべきだ』にはなりません。その間を埋めるのは、あくまで道徳的な判断です」

 と、いうことは?

 「そもそも、道徳の授業の目的は、児童生徒の道徳的な判断力を養うことです。その判断を児童生徒自身にさせず、『科学』という権威を使って判断結果を押しつけようとするのは、不適切です。文部科学省の唱える『考え、議論する道徳』と対極ですね」

ところで、「道徳教育」を強調する特に右系の人たちはそもそも「児童生徒の道徳的な判断力を養うこと」を目指しているのだろうか。目指しているのはたんに出来合いの特定の価値の刷り込みにすぎないのでは? と邪推しているのだけれど。