敬語の指針?

『毎日』の記事なり;


敬語:Q&A方式で使い方指針…文化審議会小委が公表

 敬語に関する具体的な指針作りをしている文部科学相の諮問機関・文化審議会敬語小委員会が2日、東京都内で開かれ、敬語ワーキンググループでまとめた「敬語の指針」(たたき台)が初めて公表された。「Q&A方式」による敬語の使い方も盛り込まれ、答申としてまとまれば、小委員会が所属する国語分科会(前身の国語審議会を含む)で初めての「Q&A方式」を含む答申となる。

 「Q&A方式」は計35題。「使うときの基本的な考え方」「適切な選び方」「具体的な場面での使い方」の3項目に分け、基礎知識から個別事例までを具体的に例示した。基本的な考え方では「自分よりかなり年下の取引先の会社の若い社員などに敬語を使う必要があるのだろうか」の質問に、「取引先など異なる組織にいる相手であれば、年齢にかかわらず使われているものである」と答えるなどの解説をしている。

 今後は国語分科会などで審議し、報告案としてまとめられる。報告案は11月上旬から一般公開をして、市民からの意見募集も行う。その上で国語分科会から文化審議会に報告され、承認されれば答申される。

 文化庁国語課は「文部科学相の諮問が『具体的に分かりやすく』ということだった。指針は(国が敬語を)押し付けるものではなく、敬語が必要な人のために作成している」と話している。【高山純二、佐藤敬一】

毎日新聞 2006年10月2日 21時20分 (最終更新時間 10月2日 22時14分)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20061003k0000m040104000c.html

文部科学省文化庁のサイトを彷徨ったのだけれど、「指針」を見つけることはできなかった。従って、「指針」の内容について云々することはできない。ただ、「敬語」問題で最も政治的な側面であろう皇室への「敬語」についてはどう言及されているのかは興味がある。
この「指針」を巡る『産経』の社説(「主張」);

平成18(2006)年10月9日[月]
■【主張】敬語の指針 敬いとへりくだりが基本


 昨年3月に文部科学大臣文化審議会に諮問した「敬語に関する具体的な指針」について、同審議会国語分科会の敬語小委員会が検討を重ねてきた案がまとまった。

 指針案が指摘するように、敬語は古代から現代に至る日本語の歴史の中で一貫して重要な役割を担ってきた。言葉はただ相手に意味が通じればいいというものではない。日本人はある場面において敬語という形で言葉に自らの気持ちの在り方を載せることで、軋轢(あつれき)を回避し、円滑な人間関係や社会関係を取り結んできた。

 それが戦後の民主化の流れの中で、ともすれば敬語は、身分や役割の強固で固定的な階層を基盤とした旧時代の遺物のようにおとしめられた。昭和27年の第1期国語審議会の「これからの敬語」では、基本方針の1つに「これまでの敬語は、主として上下関係に立って発達してきたが、これからの敬語は、各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない」ということを挙げている。

 こうした敬語の位置づけがともすれば敬語不要論を導き、例えば教師と児童・生徒が対等な言葉遣いをするいわゆる「ため口」こそ民主的という思い違いが生じたのである。

 ファミリーレストランなどのサービス業で使われているいわゆるマニュアル敬語は、そのような言語環境で育って敬語を自由に操れなくなった層への虎の巻の役割をした。それが敬語どころか国語表現の乱れまでも引き起こしたのだから皮肉である。

 このような混乱した状況にあって、敬語の指針が作られることの意義は認めたい。言葉を正せば意識も変化していくものだからだ。敬語は国語教育の対象でもあるが、それ以上に人間関係を教育する社会学の対象でもある。国語科だけでなくあらゆる学校教育の場面で、また家庭教育や社会教育として実践していく必要がある。

 しかし、敬語の乱れの源を考えるとき、「相互尊重」の敬語を強調し、敬語本来の「敬い」や「へりくだり」という言葉に旧時代の手垢(てあか)をことさらにみるのは腑(ふ)に落ちない。

 現代日本は敬語が自由に操れなくなってしまったくらい封建的身分制度の影が薄く、十分に民主化しているからである。
http://www.sankei.co.jp/news/061009/edi001.htm

私見を述べれば、敬語の必要性は対人的な距離を維持し、私を他者の無遠慮な侵入から護るためにこそある。所謂「ため口」は親密性を強制するという意味で暴力的である。或いは、命令的なコミュニケーションの不快感を間接化することによって緩和することか。歴史的には社会的なヒエラルキーと結び付いてきたにせよ、その根柢には対人的な距離化があることは間違いない。その意味で、「敬語」は都市的なものである*1。暴論を吐けば、田吾作に敬語の必要性はないということができる。また、親密性の極としてのセクシュアルなコミュニケーションにおいて、(SMは例外的だろうが)「敬語」は使わない*2。さらに、そもそも特定の宛先を欠いている書き言葉においても、敬語は必要ないということになる。これまでは、日本語に限らず「敬語」的なもの一般を念頭に置いてきたのだが、日本語に限っていうと、何故相手を脱主体化して場所化してしまうこと(「〜におかせられましては」)が尊敬になるのかとか*3、面白い問題は幾つかある。
さて、『産経』に突っ込みだが、「人間関係を教育する社会学」という表現。社会学は「人間関係」を研究するかも知れませんが、「教育」しません。偏差値40台的誤謬。
あと、「敬語」教育に関しては、学校教育にSMプレイとメイド・カフェ実習を採り入れることを提案したい。

*1:誰か、ジンメルとか使って、上手く説明して下さいよ。

*2:皇室に嫁ぐ女性は、崩御! 崩御と叫ぶよう訓練されるのかどうかは勿論知らない。

*3:「遊ばす」という表現もこれと関係あるか。