Volunteer or service?

承前*1

まだまだ〈言語学的に思考する〉余地はあるようだ*2。ただ、これは安倍晋三の英語力に還元すべき問題というよりは、volunteerが日本語の中に(「ヴォランティア」ではなく)「ボランティア」、さらには「ボラ」なる略語として取り込まれた仕方の問題と解すべきか。そういえば、serviceも日本語の中では〈無料〉の意味で使われることが多いな。
Baatarismさんの指摘を引用しておく;


このケースでは国家が強制的に大学入学前に奉仕活動を課すということですから、ボランティアよりは公役(こうえき)と言った方が良いのではないかという気もするのですが。w

bewaadさんのブログのコメント欄でも、だいさんという方がこのような活動は英語で言えばcommunity serviceであり、この言葉のcommunityをmilitaryに変えると兵役の意味になると指摘されていますから、これはvolunteerではなくservice、つまり役務でしょうね。

安倍氏の周辺の人達は「公」という言葉が好きなんだから、「ボランティア」なんて世間におもねるような言葉を言わなければ良いのに。w
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20060902/1157204265

ところで、ヴォランティア活動が活発になること(それ自体はいいことなのだろうが)の弊害として考えられるのは、変な心情(信条)倫理の蔓延か。情熱さえあれば、善意さえあれば可なりという雰囲気の蔓延は勿論、責任倫理の後退を招く可能性があるのだが、それ以上にヴォランティア(サーヴィスでもいいのだが)の対象となる他者の他者性を損ねる可能性が大きい。〈善意〉や〈情熱〉を前にして、反論を行うのは難しい。ヴォランティアの対象となる人々(福祉の業界用語では〈利用者〉か)は、対等に反論したり・クレイムを申し立てる資格を奪われてしまう。或いは、恋愛とストーカーとの区別が付かなくなること。さらに、このことは、ハンナおばさんが『革命について』で「憐憫(pity)」の残虐なポテンシャルについて論じたことと関係している筈だ。