過度の優しさというかお世話様というか

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20091208/p1



人間の三大欲求は食欲・性欲・睡眠欲だとよく言われるが、食欲や睡眠欲の充足は社会的な手当てが必要だと考えられているのに対して、性欲の充足は倫理学や社会政策が問題にする人間の基本的「必要need」からも除外されていると言っていい。これは実に深刻な問題である。とにかく何かを食べたい、どこでもいいから雨風のしのげる暖かい場所で寝たい、といった欲求は配慮されるのに、とにかく誰か(あの人)とセックスしたい、裸になって抱き合いたい、という真剣なニーズは徹底的に無視される。
私は新自由主義者でもリバタリアンでもないけれど、個人生活に対する政府の介入はミニマムであるのが望ましいと考えている。政府の介入が正当化されるのは、それが生命の維持に関わる場合であろう。「食」や「睡眠」は生命に関わるが、「性」の場合は必ずしもそうではない。つまり、食べなかったり眠らなかったりしたら死んじゃうけど、セックスしなくても別に死なねえよということだ。だから、〈事業仕分け〉的なロジックでいけば、緊急性に欠け、政府が取り組む必然性は少ないということになる。それでも、(できるかどうかわからないが)〈主計局〉を説得しようとすれば、〈少子化対策〉とかを持ち出すしかない。

近年、障害者へのセックス・ボランティアが公に語られるようになったが*4、あれが発している効果は両義的であり、「障害者だから自分ではできないもんね、仕方ないね」という形で、セックスパートナーを獲得できない健常者はマスターベーションで我慢して当然という規範意識を補強する結果をも生んでいる。しかし、障害者が自分の性欲を処理するという「機能」を達成できない、その「潜在能力」を持たないから手当ての必要があると認めるならば、健常者の多くだって思う様にセックスを経験できないというケイパビリティの不足には直面しているのである。違いは相対的でしかない。

健常者はマスターベーションができるからいいと考えることはできない。マスターベーションで得る充足とセックスで得る充足は同じではないからだ。セックスをしたいのなら、その相手となる恋人を獲得すればよいとの考え方も間違っている。愛情への欲求とセックスへの欲求は切り離して考えるべき問題である。愛情への欲求も満たされるべき必要と考え得るが、人の心を操作することはできない。したがって、これを社会的に手当てすることは不可能である。対して、体は売り買いすることができる。売り買いすることができるものは社会的に手当てすることができるので、セックスへの欲求は社会政策によって充足し得る対象である。

先ず、「愛情」を伴った恋人間のセックスか金銭で売買されるセックス(売買春)というのは粗雑な二分法であり、現実にもそぐわないだろう。「愛情への欲求とセックスへの欲求は切り離して考えるべき問題である」。勿論。だからといって、そこから一気に「愛情」は売買できないけれど「体」は売買可能だと飛躍することはできない。取り立てて恋愛感情を伴わないカジュアルなセックスというのは、ナンパとかセフレを作るという仕方で広範に行われている。これは自由な交渉(誘惑とか拒絶とか承諾とか焦らしとか)を通して行われていることだ。
それから、ほんとうに「障害者へのセックス・ボランティアが公に語られるようになった」ために、「セックスパートナーを獲得できない健常者はマスターベーションで我慢して当然という規範意識を補強する結果」が生まれているのかというのは疑問、というか、よくわからないのだ。障碍者の場合は、河合香織さんの本にも書かれているが、これまでその人たちが性的な存在なのだということを(例えば「強制不妊手術」*1のように)社会的に否認されてきたのであって、この人たちが欲望を持つ存在であること、制度的或いは技術的或いは知識的なサポートがあれば欲望の充足も充分に可能だということを示し、社会的に共有される知識としていくことは意味があることだ。だから、「セックスパートナーを獲得できない健常者」に何かするというのとはかなり意味が違うのではないかと思う。勿論、あの本に出てくる(特に和蘭で実践されている)「セックス・ボランティア」を全面的に肯定したくないという気持ちがあるのだが。
セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)

さて、「教育バウチャーのセックス版」が提案されている。「セックスパートナーを獲得できない健常者」のケイパビリティを高めたいと思うなら、その人たちへの技術的或いは知識的なサポートをヴォランティアで行えばいいのではないかと思う。そのヴォランティア団体(NPO)への寄付は公益団体への寄付として免税措置を享受できるようにすれば、ケイパビリティに配慮したことになるのではないか。それを飛び越して、「教育バウチャーのセックス版」というのはどうかと思う。また、教育への公的助成、さらには(できれば)無償化が必要なのは、もしそのような制度がなければ、金のない人には教育制度へのアクセスが不可能になるからだ。金の有無は教育へのアクセスの可否に直接関係している。しかし、「セックスパートナー」の「獲得」というのは金の有無とは直接関係しない。その多くは、上述したように、自由な交渉(誘惑とか拒絶とか承諾とか焦らしとか)を通して行われているわけだ。思うに、「セックス産業」の利用を選択するというのは(勿論、プロフェッショナルなわざを堪能したいという人もいるのだろうけど)、ややこしい〈交渉〉のプロセスをスキップしたいということなのではないか。欲望を充足するために当然すべき〈交渉〉努力をスキップするために金銭を払う人に国費を支出することには(私も含めて)納得しがたいと思う人が多いのではないか。
性に関するケイパビリティへの過度な公的配慮を要求するということは、拐かしてきた女性を〈天皇陛下から下賜されたありがたき贈り物〉として兵隊に提供する〈従軍慰安婦制度〉を肯定し、要請してしまうことに繋がりかねないという危惧を持つ。あの制度だって、制度策定者の主観においてはそのような配慮があったかも知れないのだ。
最後に、「売買春自由化」については原則的に賛成。但し、理由は労働者保護のため。リスキーな仕事なのに労災も適用されないというのはどう見てもおかしい。