何もないことは何かあったということを喚起し

時事通信の記事なり;


畠山容疑者宅、取り壊しへ=町長が表明−秋田

 連続児童殺害事件を受け、秋田県藤里町が町営住宅内にある畠山鈴香容疑者(33)の自宅を取り壊す方針であることが20日、分かった。石岡錬一郎町長が同日までに方針を表明した。
 同容疑者の自宅は米山豪憲君(7つ)の殺害現場でもあり、周辺住民から「目にすると事件を思い出す」との声が上がっていた。
 取り壊し後は、建て替えても入居希望者がいないことが予想されるため、更地か緑地にする予定という。 
時事通信) - 7月20日19時1分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060720-00000090-jij-soci

証拠は保全しなければいけないのではないかと思うけれど、どうなのだろう。
記事では住民のメンタル・ヘルスに配慮したということになっているけれど、その効果は疑わしい。壊して「更地」にしたとしても、その一角だけ何もないということがそこに何かあったことを喚起してしまうからだ。〈番町皿屋敷〉の「皿」は「更地」の「更」でもあったというのは、故宮田登先生の説。話を戻せば、建物があろうがなかろうが、記憶は喚起されてしまう。また、人にしても、その集合であるコミュニティにしても、遭遇してしまったイレギュラーな事故とか事件とかを、フォークロアという仕方で変形・処理してきたともいえるのであり、「思い出す」のに配慮して壊してしまうというのは、人間をただただ受動的にトラウマに苛まれる存在としてしまうことでもあり、人間学的にも問題ありなのではないか。
そういえば、実家の近くにもう30年以上空き地である100坪ほどの一角がある*1。家が建て込んだ住宅地の中に空白がぽっかり開いていたら、そこは何か曰く付きの土地なんじゃないかと勘繰るのは当然といえば当然。勿論、その土地とかそこに住んでいた住人にどんな事情があったのかということは私にはわからないのだが。
但し、壊すというのは別の意味があるのかも知れない。つまり、藤里町が「畠山鈴香容疑者」を象徴的に絶縁しようとする振る舞い。話の次元は全然違うが、数年前に大石寺が(創価学会が寄進した)正本堂を取り壊したことに通じているのかも知れない。それが意味しているのは、日蓮正宗創価学会の絶縁を可視的に表現しているということ*2

*1:10年くらい前から駐車場になってはいるのだが。

*2:また、その取り壊しが創価学会にとって、教義上の重大なダメージになっているということは指摘しておく。