清澄白河、そして

久々に『ぴあ』を捲ってみると、地下鉄の「清澄白河」駅の近くに幾つか新しいギャラリーができているのを発見。
木曜日、清澄白河駅から地上に出ると雨。ちょっとした風が吹くと、ぼろ傘は壊れてしまった。近所にある、清澄公園、松平定信の墓、芭蕉庵等々の歴史的名所をスルーして、「江東区清澄1-3-2」を目指す。そこは現在も使われている倉庫。隣はタクシー会社の車庫。倉庫の5階以上のスペースがギャラリーになっているらしい。
当日観たのは、


 「高松次郎展−−影のドローイング」@MIYAKE FINE ARTS
 「4人展 千葉正也/池田光弘/徐美姫/イェルヴァ・オグラン」@SHUGOARTS
 「荒木経惟展−−色淫女」@Taka Ishii Gallery
 「ケント・ヘンリクセン展−−Patterns of Indulgence」@hiromiyoshii
 「多田友充展−−私には、籠の中の鳥がなぜ唄うかが分かる」@ZENSHI


高松次郎のは小品ながら、ちょっとヘヴィで、ここでコメントする元気はまだない。「4人展」であるが、何れも1970年代生まれの作家で、千葉正也と池田光弘は所謂風景画ということになるのだが、千葉の作品では、大自然の風景の中に白い人状のオブジェが放り込まれることによって、強烈な異化効果を出している*1。また、千葉が昼の風景なのに対して、池田は夜の森の風景。吸い込まれるような恐怖とSFホラー的な薄気味悪さを喚起する。徐美姫は写真作品。海の表面(波)を撮ったモノクロの作品。思わず見入ってしまう何ものかを持つ。スウェーデン人のイェルヴァ・オグランは女性のイメージを切り刻んで、播種した1点しか展示されていなかったので、「作家をとりまく家族と世代の物語」とか「家族社会学的アプローチ」という紹介を読んでも、ちょっとぴんと来なかった。荒木さんのは、写真(勿論、女性ヌード)を地にして、ドローイングしたもの。荒木さんのドローイングの筆の痕跡はとにかくすごい迫力なのだが、荒木における写真と絵画の関係というのはどうなっている(或いはどういわれている)のだろうかと少しは気になった。実はいちばん印象が強かったのは、ケント・ヘンリクセンの作品。未完成の刺繍作品を装っている。古典的なパターンに填め込まれたコミカルなキャラ。また、コミカルなキャラのパターンがあらゆる作品の地、つまりギャラリーの壁紙に使われていた。アートにおいて、作品とその環境の区別はふつう額縁によってなされる。額縁によって、作品はそれが掛けられている壁から区別されるのだが、ここでは壁は慎ましい地に甘んじてはおらず、その結果、(ちゃんと額縁はあるにも拘わらず)作品とその環境の(自明な)区別は一時的にせよ攪乱される。ケント・ヘンリクセンの印象が強かったので、隣のギャラリーでやっていた多田友充のは殆ど印象が残っていない。
このアート・スペースの欠点はやはりその周りにカフェが全然ないことだろう。近くの清洲橋を渡って、日本橋浜町、そして人形町の辺りを彷徨う。もう雨は止んでいる。実は学生時代にこの辺りはアルバイトの関係でかなり頻繁に来ていたことがあるので、土地勘はある筈なのだが、ジェントリフィケーションのされすぎで、なかなか記憶を取り戻せなかった。
ドトールで読書をしたり、本屋で藤原正彦の本を立ち読みしたりして、日本橋図書館に寄る。


 Jean-Luc Nancy「世界化の時代における政治」『文學界』2006年7月号、pp.156-171.
 白川静「文字政策は漱石の時代を目標とせよ」『文學界』2006年7月号、pp.122-129.


それから、川本三郎による張楊へのインタヴュー(『世界』2006年7月号、pp.174-179.)をコピー。
そういえば、『中央公論』の内藤朝雄氏の〈ヤンキー〉論文、コピーするの忘れた!

*1:ヒプノシスによるZEPのPresenceのアート・ワークを思い出すのもよかろう。