Degradation

http://anotherorphan.com/2006/05/post_272.htmlを読む。
曰く、


「キモイ」という単語を発する人間の心にあるのは、相対的に自分が「イケテイル」ことへの脅迫的な確認欲求であり、また自分「たち」が、その「キモイ相手」よりも、イケテイル「層」であることの確認欲求である。さて、この時、「キモイ」と言う側の人間は、そういうことによってある種の安心を得る。自分たちよりも「下」がいることの確認である。そしてそうして下を見出すことにおいて安心する人間の視線は、決して上を見ようとしない。絶対的な「上」を目指すのではなくて、自分たちより下の身分階層が存在していることに安心する。彼らの常に下を探し出そうとする視線が、「下層社会」を形成している、「先回り心性」に極めて近い傾向を持っているように思えるのだ。なぜか。それは、「キモイキモイ」という側の彼らは、キモイ相手よりは「イケテイル」が、自分たちが何も出来ない人間であることに、本当は極度に怯えているからである。彼らは決して自らを最下層には位置づけない。しかし、彼らの「キモイ」には、自分たちが「下」にいつつあることに対する、実は裏返しの強烈なコンプレックスが存在している。全体として、自分たちがすでに「下層」であることを先回りして了解してしまっているから、さらに先回りして自分たちが「キモイ」といわれる前に、自分たちの「さらに下」を作り出そうとするのだ。
しかし、このことに「オリエンタリズム」を関連づけているのはどうなのか。「オリエンタリズム」における〈オリエント〉への眼差しは幾重にも屈折しており、故にそれによって構成される〈オリエント〉像も多義性を持つ。例えば、古代/近代という対立の導入。


 古代  栄光
 近代  頽落or停滞


この対立を導入し、前者によって本質を構成することによって、〈オリエント〉を浪漫主義的に賛美することと差別したり搾取したりすることが同時に可能になる。また、さらに致命的に重要なのは、頭/手足という対立の導入であろう。意味の源泉はどこにあるのかという問題。眼差された〈オリエント〉は自らの振る舞い、或いは栄光の古代の遺産の意味を知らない。それが開示されるのは、〈オリエント〉を眼差す(〈オクシデント〉に属する)学によってである。
翻って、「キモイ」はそのような多義性に満ちているのだろうか。或いは、「キモイ」に対する浪漫主義的な憧憬なんてあるのだろうか*1 *2
ただ、


そんなものは当初なかったにもかかわらず、自らの反抗とプロテストの行為そのものが、一層その「劣等的な位置関係」を前景化してしまう。自意識して、抵抗すれば抵抗するほど、実は階層が確定されてより悲惨な状況になったりする。「キモイ」も「下層」も一緒だ。キモイといわれた人間は、それを無視することなど、簡単には出来ないのだ。呪いとしてその人間の存在を、規定してしまう。抵抗するという行為が、自らの中にも「キモさ」を再生産してしまう。これこそ真の悲劇だ。
という(「ドキュメンタリー的解釈法」を介しての)悪循環の指摘は重要。
さて、degradationといえば、猿虎さん*3
「暴走族」を巡って、

 ある人に「カッコいい」と思われているものについて「本当はカッコ悪いんだよ。プ」とか嗤ってみせる、というのは、言ってみれば脱聖化ということだろう。つまり「王様は裸だ」というやつだ。そうした権威の脱聖化は、それ自体が「カッコいい」と思われているフシがある。「カッコいいとされているものをカッコ悪いと指摘することがカッコいい」というわけだ。ただ、珍呼運動とかネタ化とかにおいて脱聖化されるのは、「王様」ではなくて、暴走族とか、そういう周辺的なものだというのが気になる、とさっき書いた。

 しかし、では王様というか中心的なものが聖化されているかといえば別にそういうわけでもない。暴走族やプロ市民もネタ化されるが小泉だって天皇だってネタ化されている。

 というか、あらかじめすべてが脱聖化されていてしまっているわけだが、その不安を祓うため、つまり聖なるものの非存在を確認するために、脅迫的に脱聖化の儀式を繰り返しているようにも見える。脱聖化そのものが聖なる行動なのかもしれない。「ネタ化」というのは、「祭り上げる」のではなく「祭り下げる」という「祭り」なのかもしれない。と、かなり適当なことを書いて恥をさらしつつあるので、このへんでやめとく。

と書いている。
まず、反体制的なものは「カッコいい」という感性の変容とも関連しているかと思う*4。それはさて措いて、ここでいう「脱聖化」というのは、たんなる「格下げ」ではなく、意味というものの消去に関わっている。近代の端緒が宗教改革にあるとすれば、近代それ自身に関わる問題である。宗教改革のテロスは神の絶対的超越性を称揚するために、現世の意味を徹底的に剥奪し、たんなるmaterialに還元してしまうということにあったといえる。つまり、目指されていたのは意味それ自体の消去なのであり、そこにあるのは、世界への配慮の欠如というか、寧ろその積極的な禁止であろう。ここで配慮が内向きに転換して、私たちは〈自分という獄屋〉に幽閉されてしまうことになるのだが*5、問題は、仮令そうであっても、意味というのは勝手にぽこぽこと構成されてしまうということである。そうであれば、意味つぶしも際限なくなる。
ところで、所謂「ネタ化」「脱聖化」に倫理的ないかがわしさを感じてしまうのは、その世界への配慮の欠如のせいなのかも知れない。貧しくなるのは、「脱聖化」に晒された対象であるよりも、世界或いは宇宙そのものなのである。

*1:ここで言われている「キモイ」というのは、私(たち)が日常的に使っている「キモイ」と同じ意味を持つのかどうかはわからない。何しろ、ここでは「キモイ」は「努力」や「真剣」と対立するものであるらしいのだから。

*2:それに対して、「文化系女子」への視点に「オリエンタリズム」を見出すのはさして難しくないような気もする。

*3:http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060516/p4

*4:例えば、中国映画の場合、国内で上映禁止になったということだけで、グローバルな市場における価値は上昇する。

*5:その意味では、ヒッキーというのはきわめてラディカルな近代を生きていることになる。