それよりも「労働」は「自己実現」なのか

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060501/1146445919


労働という分野ならどこでも、医療であれ、製造であれ、情報産業であれ、中枢にあたる「将軍」や「参謀」にあたるポジションというのは限られているし、全ての人を「将軍」や「参謀」にしていては船頭だらけの難破船になってしまう。実際に現場が必要としているのは沢山の「兵士」だ。中枢の手足となって働く「兵士」が欲しい。下士官ぐらいは幾らか必要かもしれないが、それだって兵士よりは数が少なくてもいい。労働という分野でたくさん必要とされているのは、何も考えない、「個性の違い」に拘泥しない、えらい人の言うことは何でも聞いて、共通規格の部品で動く歯車だ。
たしかに、少なくとも〈資本家〉の立場からいえばその通りだし、現実的にもその通りなのだろう。ただ、本当に「共通規格の部品で動く歯車」になってしまうと、ネガティヴ・フィードバックが利かなくなって、〈資本〉という機械は大暴走を起こす。カーヴを直進してしまったJR西日本の運転手のように。そもそも「将軍」や「参謀」の空想が現実に直面するのは、「兵士」からのフィードバックによってである。ということで、仕事と資本というのは対立しているくらいが社会にとってはちょうどいいといえるかもしれない。
また、

にもかかわらず、そこここの教育分野では、こうした「兵士」コースが徹底的に隠蔽されまくっている。代わりに、個性・夢・クリエイターなどといった体の良い文句を、大学も、専門学校も、果ては工員を養成する為の実業高校でさえ垂れ流し、あたかも「誰でも将軍や参謀になれるような」看板を掲げている。そして親や本人は、その看板に多かれ少なかれ願望を投射して気分の良い夢にありついている。「あんた、兵士になるんだよ」とは、誰も声をかけてくれない。代わりに「将軍になれるかもよ?」「参謀になれるかもよ?」「技術将校になれるかもよ?」という風船状の幻想が、親と本人に共有されるわけか。教育を提供する側がどこまで意図しているかはわからないが、「兵士たらん」とする教育よりも「将軍になれるかも」的風土に注目する暗黙の了解が形成されている。特に、「才能さえあれば」「実力さえあれば」という謳い文句が通用しやすい業界では、(実は兵士や人間の盾が沢山必要にもかかわらず)「将軍コース」「参謀コース」の夢でお客さんを釣るケースが多いようにみえる。たとえばサブカルチャー系専門学校とか。
これも正しいと思う。ただ、「サブカルチャー系専門学校」についていえば、本来「学校」とは無縁だった領域の「学校」による包摂、露骨な言葉を使えば「サブカルチャー」の学校文化による殖民地化であることは注意すべきだろう。
ただ、「「兵士」としての自己実現」というのはどうかな。労働力を売ることは基本的には時間を売ることだが、「自己実現」とかというと、時間どころか自分の生全体を「労働」に、ということは〈資本〉に捧げてしまうということに繋がりかねない。また、〈足軽〉にそんなコミットメントを求めてはいけない。また、「自己実現」がこんなに持ち上げられる社会っていうのは何なんだよという気はする。「実現」しなければいけない「自己」って? 「実現」するもしないも、「自己」は常に「自己」なのでは? 
多分、重要なのは「自己実現」などではなくて、〈極道〉ということなのだと思う。〈極道〉が「労働」(というか仕事と)偶々重なると、〈職人〉ということになるのだろうけれど、全員が〈職人〉になれるわけでもない。誰もが「労働」で「自己実現」したり道を極めたりすることもない(できない)ということで*1、宗教、ファッションetc.の〈遊び〉の領域で道を極めようとすることになる*2。つまり、「「兵士」としての楽しみ」というのは土日をお楽しみにということ。そうであれば、教育も教養というか、文史哲それから理を基本にということになる。何しろ、ウィーク・デイだけが1週間ではないのだから。
この「将軍」「参謀」「兵士」問題というのは、猿虎さん*3が指摘する、自分は「兵士」なのについつい「将軍」の視点で物事を見てしまうという問題と関係があるのかも知れない。ただ、他者の視点で物事を見るというのは、人間の基本的な能力の一つであり、所謂役割行為の基礎でもある。さらに、ダニエル・・ラーナーが示したように*4、身近な他者ではなく、王様とかそういった他者の視点に気軽に置き換えることができるというのは、良くも悪くも近代社会の症候ではある。北朝鮮人民に、もしあなたが金正日だったら何したい? と訊くことはできる?
因みに、http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060501/1146449732について。日本の自衛隊ではわからないけれど、少なくとも米軍では、ナースは将校待遇ですね。

*1:ただ社会にとっては、前述のように、一定数の〈極道〉がそれぞれの現場にいないと都合が悪い。

*2:興味深いのは、短歌とか俳句で、俵万智などを除けば、プロの歌人俳人はいない。

*3:http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060505/p1

*4:といっても私はラーナーの言説を孫引きでしか知らない。