Doxaについてメモ

偶々摂津正氏の文章を目にしたので、メモしておこう;


生活世界は沈黙の世界、言葉以前の世界ではない。むしろ生き生きとした言葉が溢れ交わされる場所である。またそこでは、無数の習慣が、癖がつけられてはまた組み替えられていく。われわれは自らが生きる世界で、或る習慣を獲得し、且つ不断にそれを組み替える。われわれが酒飲みになったり、また断酒したりするように、われわれは習慣を組み替えることで自己を刷新する。自己とは習慣の束であり、可変的なものだ。

われわれが生きる世界では、科学者や合理主義者からすれば無意味ないし非合理ともみえるような要素が作働している。例えば「虫の知らせ」といった現象が起きたり、ちょっとした躓きから何か自らの生にとって根本的に大事なことを発見したりする。つまり、そこには発生状態の意味が溢れているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/femmelets/20070613#1181699080


エピステーメからドクサに遡行するということは、科学的言説が構築する「客観的」世界から生活世界へと遡行するということである。つまり、われわれが日々言葉を喋り、他者と何かを交換し、労働し、遊ぶ、そうした時間-空間の論理と法のア・プリオリと歴史性を問うということである。

人間が人間である限り、言い換えれば身体構造などがサイボーグ化などで極端に変容させられない限り、共通な営みというものはあるだろう。が、縄文時代の人類と、例えば21世紀日本の人類が、同じ人間だからといって同じ生活を営んでいるわけではない。資本主義の発展と科学技術の発達が、古層の経験を隠蔽している。しかし人間そのものは恐らくそれほど変わらないわけだろうから、急速に発展する外的環境と人間の心身の間で齟齬をきたす場合が多いように思う。それが精神疾患などとなって表現されるのではないか。神田橋條治が書いていたが、人間の脳は約3万年前に完成していたので、その当時の刺激が最も脳の養生には良いはずだという。3万年前の人類の生活を想像するのは困難だが、われわれの本能ないし感性で、或る種「野生化」した音楽なり刺激を求めているのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/femmelets/20070613#1181698332

「資本主義の発展と科学技術の発達が、古層の経験を隠蔽している」ということについては必ずしも賛同しない。先ず、〈原始〉社会なり〈未開〉社会なりを、文化(人工)/自然という対立の自然の項に配分するというのは間違っていると思う。〈人工〉の在り方が異なっていると考えるべきだろう。「資本主義の発展と科学技術の発達」に関しては、〈伝統〉社会において「古層」を上手い具合に「隠蔽」(開示)してきた、それらを意味世界に係留してきた儀礼的・象徴的コードの破壊の方が問題だろうと思う。「資本主義」にしても「科学技術」にしても、それらを適切に意味づけることはできない。
「ドクサ」の貶価については、アレントの”Philosophy and Politics”(Social Research 57-1, 1990)をマークしておく。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070502/1178032169と関係するか。