奥谷発言

先ずは『朝日』の記事;


「過労死は自己管理の問題」奥谷氏発言が波紋
2007年02月07日20時38分

 過労死するのは本人の自己管理の問題――。労働政策審議会厚生労働相の諮問機関)の分科会委員、奥谷禮子氏(人材派遣会社社長)の週刊誌インタビューなどでの発言をめぐって、7日の衆院予算委員会論議があった。民主党川内博史議員が「あまりの暴言だ」と指摘。柳沢厚労相も「まったく私どもの考え方ではない」と防戦に追われた。

 奥谷氏は、一定条件を満たした会社員を労働時間規制から外す「ホワイトカラー・エグゼンプション」(WE)の積極推進論者。労働時間規制をなくせば過労死が増えるとの反対論に対し、経済誌週刊東洋経済」1月13日号で、「経営者は、過労死するまで働けなんていいません。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います」などと反論。また「祝日もいっさいなくすべきだ」「労働基準監督署も不要」とした。労政審分科会でも「労働者を甘やかしすぎ」などと発言している。

 奥谷氏は朝日新聞の取材に対し、「発言の一部分だけをとらえた質問は遺憾だ。倒産しても、会社は社員を守ってくれない。早くから自律的な意識をもつべきで、労働者への激励のつもりで発言した」と話した。
http://www.asahi.com/politics/update/0207/009.html

ここで問題になっている奥谷発言はhttp://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/7083bfc68b2bb9410489113caf638085で全文を読むことができる*1。この全体的な評価について、kmizusawaさんは

奥谷氏のを例に取ると、そりゃ「個別企業の労使が契約で決めて」「「不当だ」と思えば、労働者が訴え」ることができ「労使間でパッと解決できるような裁判所」があれば労働基準監督署なんてやることないわな。「24時間365日を自主的に判断して、まとめて働いたらまとめて休むというように、個別に決めていく社会」が実現したら、そりゃ休む日をカレンダーに決めてもらう必要もなくなる(祝日いらない)わな。「自分でつらいなら、休みたいと自己主張」して休みが取れる体制なら、過労死は確かに自己管理の問題かもしれん。

しかし現実はどうかというと、そこからはるかにかけ離れた現実があるわけで、それがまったくなきがごときに(実際に「ない」と考えてるとはさすがに思わないが、奥谷氏のほうはよくわからない)、理想状態のほうを前提として自己責任のようなことを言うから世論沸騰するわけで。(後略)
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070208/p3

と述べている。多分、この評は正しいのだと思う。さらにいうと、奥谷女士はプロのビジネス・パーソンであるにも拘わらず、近代社会におけるビジネス、仕事の在り方についての基本的な事柄についてわかっていないように思われる(或いは、わざと知らないふりをしている)。すなわち、分業の聯関ということ。近代社会において(というかどんな社会でもそうだろうけど)仕事というのは組織内でも組織間でも分業の聯関の一環として行われる。自分一人で仕事をしているのなら、完全な「自己管理」も可能だろう。しかし、実際には常に他者の都合も(少なくとも)考慮しなければならない。もし労働時間の完全な「自己管理」をしようとすれば、それは他方では「自己管理」の厖大な剥奪に繋がる筈である。組織内でも組織間でも相対的に力の弱い存在に犠牲は集中する筈だし、現実にもそうだろう。さらにクライアントとか顧客という存在もある。こうした聯関はどのような社会でも存在するものであり、聯関の在り方を制度的に改良することはできるかもしれないが、奥谷女士のいうような主観的覚悟によって無化することのできる事柄ではあるまい。
「祝日もいっさいなくすべきです」について。フリーランスで仕事をしている人にとってはそもそも世間的な休日とか祝日は関係ない。また、時給や日給ベースで仕事をしているフリーターの人では、この部分に関しては共感する人も少なくないのではないか。土方を殺すには刃物は要らず雨が3日降ればいいように、フリーターを殺すには連休が数日増えれば十分だからだ。ただ、国家主義者からすれば、national holidayというのはあくまでも国民統合の手段なので、相当の異議がある筈。

*1:勿論、奥谷女士が喋った内容を編集部がその判断で纏めているのだろうから、発言としてのオーセンティシティが確保されているかどうかはわからない。但し、奥谷女士がそれを校閲して、自らの言葉として認め、署名していることは事実だろう。