死にたい人

『読売』の記事なり;


投げ落とし「死刑になりたかった」今井被告が供述

 川崎市多摩区のマンションで小学3年男児(9)が投げ落とされた事件で、殺人容疑などで再逮捕された同市麻生区細山、無職今井健詞被告(41)(殺人未遂罪などで起訴)が、神奈川県警多摩署の特捜本部の調べに対し、「自分では死にきれなかったので、人を殺して死刑になりたかった」と供述していることが28日、わかった。


 今井被告は昨年11月に同市内の病院に入院する前、何度か自殺を図っており、特捜本部は一連の犯行は自殺願望を満たすためだった可能性が高いとみて、さらに詳しく動機を追及している。

 特捜本部によると、今井被告は調べに対し、昨年9月にインテリア用品会社を退社した後、現場マンションの15階から飛び降りようとしたが、「怖くてやめた」という。自宅でもコードのようなものを首に巻き付けて自殺を図っていた。

 だが、3月8日の退院後は、「常に人を殺したいと思っていた」などと供述。特捜本部が、殺意の対象が入院を境に、自分から他人に変わった理由を追及したところ、自分では死にきれなかったことから、死刑になるために男児を殺害したり、3月29日にも清掃作業員の女性(68)を投げ落とそうとしたりしたとの内容の供述を始めたという。

 また、今井被告は、男児の両脇に手を入れ、抱え上げて投げ落としたと供述しているが、「(刃物で)刺すと血が出るから」「血を見るのが嫌だから」と話していることもわかった。

 一方、今井被告は男児の投げ落とし事件があった3月20日、歩いて現場マンションに向かったが、途中で路上にあった自転車に乗って行ったことがわかった。今井被告は犯行後、この自転車で立ち去ったといい、供述通り、同市多摩区の路上で自転車が見つかった。
(2006年4月29日3時2分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060429i301.htm

それが顕在的なのか潜在的なのかはわからないが、刑罰には、既に起こってしまった犯罪を処理するだけでなく、(これから起こるかも知れない)犯罪を抑止する機能があるというのは、よく言われることだ。刑罰を重くすれば、犯罪のコストは高くなる。そこで前提となっているのは、一種の功利主義であり、また一種の生命主義であろう。(少なくとも)自分の生命は大事なもの、最も価値あるものであること、この原則を犯罪者(或いは犯罪を犯そうとしている人)も共有しているということは、刑法という制度が機能する上で自明な前提として想定されている。特に死刑制度はこの犯罪者も生命を尊重しているという前提なしでは、まともな制度として存立することはできない*1ということは、自らの生命を鴻毛よりも軽いと思っている人、さらには死にたいと思っている人を相手にした場合、刑罰はその抑止機能を果たせない、つまりお手上げだということになる。そこでは別の種類のリスク計算が働いている。特に後者の場合、犯罪を犯して、その結果得られる死こそが(欲望される)最大のゲインだということになる。犯罪の抑止をも考慮して定められた刑罰、例えば死刑が犯罪者を誘惑していることになる。死んでもいい、死にたいと思っている人がどのくらいいるのか、或いは増えているのか減っているのかはわからない。ともかく、死刑制度に賛成する人は、このパラドクスをどう考えるのだろうか。

*1:そのような前提がなくても、体制にとって都合の悪い奴を消す仕掛けとしては十分存立可能ではあるが。