「難しい」ことが問題なのか


市民運動的なことを推進する人が敬遠されるのは、サヨク的なことがかっこ悪いとか怖いとか運動の重要性や主張の中身に疑問があるとかいうのもあるだろうけど、その人たちの「語彙」にも原因があるんじゃないかなあと思うことがある。そういう運動やってる人には当たり前の概念や知識が他の人には必ずしも共有されてないのに、共有されて(て)当然という前提で語っちゃうから、そこの時点で意味不明というか、偉そうというか…
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060428/p2
この引用はあくまでも取っ掛かりにすぎないのであって、以下ではkmizusawaさんを批判しようとするわけではない。枕にするだけというのは却って失礼か。
たしかに、「そういう運動やってる人には当たり前の概念や知識が他の人には必ずしも共有されてないのに、共有されて(て)当然という前提で語っちゃうから、そこの時点で意味不明というか、偉そうというか…」ということはある。「そういう運動やってる人」は結局は〈オタク的コミュニケーション〉をやっているということである。
私が感じているのは実は全く別のこと。右翼だけでなく、左翼の場合も、党派的にチャージのかかった*1言説というのはわかりやすい。というよりも、キモいくらい。わかりやすすぎるといった方がいいのか。右的な、日本国憲法教育基本法が諸悪の根元とか、ジェンダー・フリーが日本を滅ぼすとか、日本の戦争責任を云々するのは北朝鮮や中国の手先だといった言説は、多くの人が嘲笑してきたし、私もそうしてきた。こうした言説で問題なのは、その当否以前に、そんな単純に世の中わりきれるのかよということだろう。実は、左の方だって、それに関しては、右と大して変わらない。何から何まで、資本主義とか帝国主義とかブルジョワジーとかを持ち出せば、一件落着! 党派的にチャージのかかった人から見れば、世界はかくの如く整然としたものなのだ。私は世界というのはそもそも複雑すぎてわからないものと思っている。だから、整然とした、わかりやすい説明というのに接すると、引いてしまう。
現代は(というよりもいつの時代でもそうかも知れないが)何よりも先ずわかりやすさが求められる時代。それは流通する情報の量的な増大によって(それだけではないが)世界の複雑さ(不透明性)が増大していることによって要請されているということも可能だろう。小泉自民党の圧勝も、宗教における原理主義の興隆も、わかりやすさが求められているということで、取り敢えずは説明可能ではある。そうだとすると、左翼だって、もっと流行っていい筈だ。しかし、同じ単純でも、流行るのは右ばかり。だとすると、左翼が流行らないのは、わかりやすい/難しいという対立とは別の次元の何かと関係があるということになる。或いは、左翼がある方面のウケを狙って、フーコーだのデリダだのを読んだりするのが拙いのかもしれない。しかし、例えば『情況』周辺とかなら、そうかも知れないが、私が「キモいくらい」「わかりやすすぎる」といった所謂左翼ど真ん中の言説というのは、そこにはポスト構造主義は勿論のこと、フランクフルト学派だって存在しないような世界である。それが何故流行らないのかはわからない。
いいたいのは、「難しい」こと、さらに言えばわからない奴はわかるなということを擁護しなければならないということ。或いは、世界はそもそもわかりにくく「難しい」ということを思い知らなければならないということ。或いは世界なんてわかって当然だ(だから、それをわざわざ難しく、わかりにくく言う奴が悪い)と思い込んでいる連中*2に、そのことを思い知らせる(わからせる)こと。
そもそもわからない複雑なことを自ら考えようとすれば、思考が取り乱れるのは当たり前であるし、その際には、自らの持っている種々雑多な知識を総動員しようとするので、自ら考えない他者から見れば、物凄くわかりにくく見えるのは当然なのだ。だとすれば、同時にわかってもらいたいと思うのもアウトだろう。理解などいうのは却って事故(accident*3)としてのみ生起する(happen)と考えた方がいいのかも知れない。つまり、(字義的な意味で)有り−難いことなのである。
それにしても、保坂和志さんの「プー太郎が好きだ!」*4はいい。

*1:あえて「政治的」とはいわない。

*2:所謂「プチ文盲」(http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20060425)というのは、このことと関係があるんでしょうか。

*3:中国語では「意外」と訳すこともある。

*4:http://web.soshisha.com/archives/world/2006_0427.php