Students nowadays

猿虎さんの「なぜ日本でデモ文化が衰退したか」という問いかけ*1に対して、utsutsuさん*2が今時の大学生のマンタリテを纏めている;


同世代の若者が行かない理由

ここはあくまで私の観察をベースにしているが、一部推論も含む。
社会・政治に強い興味を抱けない。(特に女子、あるいは低学歴の子)

国立大生とは言え、女子ならば左翼・右翼の違いも知らないのが普通。右翼の街宣カーが通った時に「あれは戦争に反対する人?賛成する人?」と聞かれて戸惑ったこともある。自分の生活に関わりがないことは知ろうとしない。つまり、政治は生活に関わらないと思っている。つまり、現状に不満を見出していない。政治家や活動家などへの印象が非常に悪い。「うざい」人ばっかだと切り捨てる姿も多々見られる。脱政治的であることが、モテの条件なのかもしれない。
社会・政治に関心を示すが、それがメタ的。(高学歴男子中心)

ゼミなどで時事問題についてディスカッションをしていてよく気になるのだが、どうも議論の中心が自分達を離れて抽象的な方向へ行く。この社会問題に対して自分はどうすべきか、というような発言は非常に少なく、「アメリカは〜」「日本は〜」などとゲームや本の中の話題を扱っているような具合になる。「当事者がこう苦しんでいる」という発言をした場合も、「当事者の苦しみはともかくおいといて、問題の本質は他にあるのではないか」という風に返されることが多い。私は空虚さを感じるのだが、皆は違和感を覚えないらしい。社会・政治問題はテレビの「あちら側」で起こっていることであり、それはゲームのコンテンツのような感覚。おもしろいゲームについて語る姿勢に似ている。これは、マスメディアだけでなく、社会科教育の影響もあるのではないか。アメリカの学校で学んでいる人に聞くと、「我々の歴史は〜、我々の先祖は〜、我々の政治は〜」という主語で社会を習うらしい。しかし、日本では受験の暗記科目なのでそれこそ他人事、フィクションのように歴史が語られ、それを暗記している。
サヨク的なものへの違和感と嫌悪感(高学歴男子中心)

これは猿虎さんが想像している以上に、非常に強く浸透していると思う。私もその根幹にあるのが何なのかははっきりわからないのだが。社民党共産党的なものを「馬鹿ばっかり」と徹底的に軽蔑する。これは勉強した上ではなく、印象論で語られることが多い(ただし彼らは自信満々)。NPONGOで活動している人のことも同様(イラク人質問題の時にはそれが放出していた。)。税金泥棒だの負け組の暇つぶしだのと言う人もいた。マイノリティにも露骨な差別心を見せる(とくに同性愛者・韓国人中国人に対しては酷い)。こういった気持ち悪い人たちと、自分たちエリートとは違うんだと思っているらしい。ウヨク的・保守的行動を見せるのが男らしさを示すことになると考えている節も多い。(生協では「ゴー宣」が売れる。「とりあえず自民党に入れておいたら間違いない!」と選挙前には言う。東京に行く機会のあった男子は、靖国神社に行ってきたと自慢する率が非常に高かった。)エリートになれることを信じている彼らにとっては、この世は快適なので不満を覚えることはほとんどないようだ。だから、声をあげる人たちに対しては、「わがまま」「負け組の自己責任が甘えんな」となる。

ふむふむと頷けるところも多い。これをベースにして、また様々な変数を考慮して、数量的な調査をすれば、面白いものになるとは思う。
ところで、若者の保守化or右傾化云々という言説は、私の知る限り、あの〈叛乱の時代〉が終わった1970年代から脈々と流通し始めている。この類の言説というのは、〈キレる=荒れる若者〉言説と大して変わらない古さを持っているのではないか。また、主観的意見の変遷の指標として、大学生(に相当する年齢層)の自民党支持率の変動をトレースしていたったらどうだろう。私の想像では、ここ20年くらいの間ではそれほど吃驚するような増減はないのではないかと思うのだが、如何?
ところで、「なぜ日本でデモ文化が衰退したか」という設問に対して、「愛国心の欠如」、つまり「基本的に現状の日本人は愛国心が欠如しており、国家へのコミットレベルが低いから、デモをやっても集まらん、というのが基本的な線ではあるでしょう」と答えている方*3を発見。公共的なものへの関心の衰退、或いは私化(privatization)が「デモ文化」の「衰退」と関係があるというのは、かなりトートロジーっぽいけれども、正しいだろう。但し、公共的なもの=国家ではない。ところで、私化というのも、少なくとも1950年代の〈大衆社会〉論にまで遡る論点であるし、60年安保の危機を池田内閣が乗り切ったのは、世の中の空気を私化、つまり経済成長による生活水準の底上げということに巧く導いたからだとも解釈できる。〈マイホーム主義〉とか〈私生活主義〉という仕方での左翼的(或いは右翼的な)批判的言説は、〈若者の保守化or右傾化〉言説よりもさらに時代を遡るのではないかと思っている。話は戻るが、公共的なもの=国家という図式が左右を問わず自明であったのは、この60年安保までではなかったか。〈市民〉という鍵言葉が登場するのは多分〈ベ平連〉以降である。但し、私化というのは、少なくとも先進資本主義社会に共通したトレンドであり、ここから日本という特殊性をストレートに説明することはできないだろう。私化の強度や具体的な在り方が問題となる。
それとも関係あるが、国家が、或いは国家権力の奪取が賭金となる社会運動というのは1960年代以降、世界的に廃れてしまう。社会運動の主流となっているのは、メルッチいうところの「新しい社会運動」である。そこで賭金となっているのは、空港であれ原発であれ、或いは性差別反対であれ、国家権力の(暴力or選挙による)奪取などではなくて、具体的な或るものを何とかしろということである。それが分かりづらいのは、所謂左翼(右翼でもいいが)がそれに連帯(或いは介入)した効果であろう。その人たちは所詮〈国家〉を巡る語彙でしか語ることができないからだ。話を戻すと、そこにおいて連帯或いは参加を基礎づけるのは端的に関心なのであり、「愛国心の欠如」が「デモ文化」の「衰退」を呼び起こしたということはできない。