「かぐや姫」と孕む富士山

保立道久*1高畑勲さんがなくなった。『かぐや姫の物語』について」http://blogos.com/article/309714/


高畑勲かぐや姫の物語*2に寄せての文章。目的のひとつは「かぐや姫」を日本神話に遡って理解すること;


しかし、高畑勲氏の「かぐや姫の物語」が示すように、実際には、『竹取物語』は相当に手のこんだ組み立てをもった話である。ここでは、それが神話の時代にさかのぼる由来をもった物語であることを示すことにしたい。

 それはカグヤ姫の本性の問題にかかわっている。つまり、カグヤ姫という名前をもった王族や王妃が『古事記』『日本書紀』に何人かあらわれるが、これは『字訓』のカグの項によって、揺らめく火のように美しい姫と解釈される。神話時代の火の神をカグツチというが、カグヤ姫のカグはそのカグであって、カグヤ姫はカグツチに対応する存在である。

 検討をカグツチから始めるが、カグツチは列島ヤポネシアを生んだ大地母神イザナミから生まれるとき、イザナミのミホトに火傷を負わせ、イザナミを死に追い込んだ少年神である。神話学の松村武雄によれば、このイザナミカグツチ出産は火山噴火を神話化したものであって、カグツチは単なる火の神ではなく、火山噴火の火を示す神であるということになる(『日本神話の研究』)。

カグツチの出産とイザナミの死を、富安陽子絵物語 古事記』から;

国を生みおえると、イザナキ、イザナミの夫婦は、つぎに、国を守る神々を生みだしていった。
岩の神、土の神、家の神や屋根の神、戸口の神、海の神や川の神、風の神、野の神や山の神、谷間の神、食べものの神、そして火の神――。
この火の神の名は、カグツチという。カグツチを生んだとき、イザナミは、大やけどをおってしまった。
くるしみながらも、イザナミは、まだ、鉱山の神や土器の神や、田畑の水をつかさどる神々を生みつづけたが、やがて、とうとう、このやけどがもとで、なくなってしまったんだ。(pp.20-21)
カグツチ」は「神武紀」にも登場する;

 さて、カグツチについては、イザナミの出産の場面のほか、『日本書紀』の神武紀に重要な記事がある。それはイワレヒコ(神武)が、大和国に攻め込むにあたって行った呪祷において使用した「火」が「嚴の香來雷(かぐつち)」と呼ばれていることである。この呪祷においては、大和の香具山から取ってきた「土」によって「埴瓮」が作られ、火と水と米と薪などが用意されて炊飯が行われ、イワレヒコは天神タカミムスヒに扮装し、大伴氏の遠祖とされる道臣命が「齋主」となってイワレヒコ=タカミムスヒに奉仕した。その中心は「火」の呪祷であり、神タカミムスヒの前で、「齋主」が「火=カグツチ」の世話をするというものであったから、これは夜の儀礼であったに相違ない。

 問題は、齋主への任命が、道臣命に「嚴媛」という名をあたえるという形で行われたことである。これは名前だけではなく、実際に道臣命を女性に扮装させたということであろう。益田勝実は、このような男が男に女装をさせて自己を祭らせる「神ー齋主」の関係を、サルのマウンティングと同じだとしているが(「日本の神話的想像力」『秘儀の島』))、このイワレヒコがタカミムスヒに扮して営まれた呪祭は、タカミムスヒの祭りの内容を直接に示唆するほとんど唯一の文献史料であり、それが女装者によって営まれたことは、本来のタカミムスヒの祭祀が女性によって営まれたものであることを示唆する。

さらに、「火山の女神」としての「カグヤ姫」(かなり長い引用);


「この子を生みまししに因りて、美蕃登(みほと)灸((焼))かえ((れ))て、病み臥してあり。多具理(たぐり)に成りませる神の名は金山(カナヤマ)毗古(ヒコ)神、次ぎに金山毗売(ヒメ)神。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波迩夜須(ハニヤス)毗古神、次に波迩夜須(ハニヤス)毗売神。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売神(ミツハノメノカミ)。次に和久産巣日神(ワクムスビノカミ)。この神の子は豊宇気毗売神(トヨウケビメノカミ)と謂う」(『古事記』)

「時に伊弉冉尊軻遇突智がために、焦かれて終りましぬ。その終りまさむとする間に、臥しながら土神埴山姫及び水神罔象女を生む。即ち軻遇突智、埴山姫を娶きて、稚産霊を生む。この神の頭の上に、蚕と桑と生れり。臍の中に五穀生れり」(『日本書紀』神代第五段、一書第二)
 この場面は、地母神の死によって、大地の富がもたらされるというコスモロジーを語っているということができよう。その富が金属・陶土などの非農業的な性格を帯びていることを見逃してはなるまい。そして、松村のいうように、カグツチの誕生が火山噴火を意味するとすると、それは、神話時代の人々が、火山噴火によって大地の富がもたらされたという神話的な直感をもっていたことを証することになる。現代の火山学者たちもまったく同じことをいう。彼らは、自己の学問の職責に関わって、火山噴火こそが、この列島の自然地形の多様性と土壌の豊かさをもたらしたのだと主張するのである。私は、それ神話の言葉でも語った方がよいように思う。

 さて、この世界創成神話における神々の噴火の光景をもう少し詳しくみてみよう。まずこの火山噴火の中心がカグツチであることはいうまでもない。噴火におけるカグツチの威力は爆発力であり、それは火山雷において象徴されているといってよいだろう。現在でも各地にカグツチを祭る神社が存在するが、それは知る限りでは雷神である。

 それ故に、カグヤ姫もただに火の女神であるのみでなく、火山の女神であるに違いない。カグヤ姫が火山の女神であることは、彼女の地上への遺品、不死の薬や手紙が、結局、富士山から焼き上げられたという『竹取物語』の結末が象徴しているのである。富士山頂には竹林があると観念されていたこと、富士の噴火のときに女神が山頂を舞うという幻視がされていることなどは、『かぐや姫と王権神話』を参照いただきたい。

そういえば、『竹取物語』が成立した頃、富士山は現役ばりばりの活火山だったわけだ。ここで思い出したのは、最近「妊活」のための縁起物として、赤子を身籠った富士山の絵が人気であるらしいということ*3。もしかして、女性たちは富士山の火山活動が再び活発化していることを直感しているのだろうか。
保立氏の文章は、この先、「カグヤ姫」の正体の考察に移っていくのだが、こっちの方はまた日を改めて、取り上げたいと思う。ただ、最後の方で、『かぐや姫の物語』について、

試写でみた限りで、もっとも印象的であったのは、月に帰還させられたかぐや姫が、どこまでも清浄な月面に泣き伏している姿であった。私は、神話時代の人々も、月面をこのようなものとして想像したに相違ないと納得した。そこにあるのは清浄で荒々しい「死の世界」、地質学的な自然そのものである。火山の噴火という激しくも凄絶に美しい地質学的な自然のなかに倒れ臥している女神。『竹取物語』という文芸に没入することを通じて、このアニメ映画は、歴史家が『竹取物語』に感じるものと同じものを直感しているのかもしれないと思う。
と語られている箇所はやはり書き写しておきたい。最近、トム・フォードの『ノクターナル・アニマルズ』で、決して「清浄」ではないが「荒々しい」「死の世界」に触れて、戦慄を覚えたばかりなのだった。ところで、山或いは火山を女として観念するのは日本だけではない。例えば、布哇のキラウエア火山の女神Pele*4。ただ、ヨーロッパではそのような発想はないようだ。仏蘭西語のmont(山)もvolcan(火山)も男性名詞。(窪むのではなく)盛り上がるものは男性というのは、形態学的には理解可能。