「自由主義」/「社会主義」(続き)

承前*1

現代思想はいま何を考えればよいのか

現代思想はいま何を考えればよいのか

再度橋爪大三郎社会主義を呑むこむ資本主義−−二十一世紀の筋書き−−」(in 『現代思想はいま何を考えればよいのか』、pp.83-119)からメモ。


ひとつひとつ、具体的な社会問題の解決をはかるのなら、それ[社会主義]はおおむね可能である。要するに、政策的な介入の方法さえ見つかればよい。ゆえに、狭義の社会主義は、いつでも選択可能である。
けれども、社会のあらゆる問題をのこらず、社会主義の立場から解決しようとしても、無理である。総路線としての社会主義は厳密には不可能である。(略)社会主義の本質である政策的な介入は、変化する/変化させる、という関係である。ところが、そもそもこういう変化が可能なためには、変化させるなにものかが、変化の前後を通じて不変でなければならない*2。社会のあらゆる部分をいちどに変化させてしまうことはできない。ゆえに、政策的な介入は、必ず部分的なものにとどまることになる。(というよりも、社会の領域の大部分は、どんなに大規模な変革があろうと、変化しないのがふつうだ。これを、「社会の伝統的な基盤に関する落合の定理」とよんでおこう。)
社会主義は、社会のメカニズムの現状にそのまま依拠する部分(自由主義)を残しておかないと、可能でない。これが、広義の社会主義が実行不可能であることの、ひとつの理由である。社会主義が不正義を克服しようとするのはいいとして、社会のなかからおよそ不正義なるものを一掃することなどできはしない。なんらかのかたちの不平等(初期条件の差異)は、必ず残るであろう。(pp.90-91)

社会主義は、不平等を放置しない。この点、自由主義に比べて、時間の経過に敏感である。これども、社会主義といえども、たちどころに目標を実現できるわけではないから、時間の問題は残っている。
(略)
時間が経過すると、一部の人びとは死んでしまう。また、別の人びとが生まれてくる。死んでしまう人びとには、将来の補償など何のいみもない。現在なにを享受できるかが重要である。だがそれはあべこべに、まだ生まれていない人びとにとっては、どうでもいいことなのだ。これから死んでしまう人びとと、これから生まれてくる人びと。両者の利害は正反対である(場合がある)。
(略)
社会主義はこの問題を迂回するため、しばしば集団主義(個人をこえた超越的な主体に訴求する戦略)に訴える。たとえば、プロレタリア階級や民族は、そうした主体である。その種のものを前提にするから、「革命の犠牲」「悠久の大義」などという言い方がいみをもつ。超主体は、個人の死を越えて永続するのだ。それでも、個々人が死ぬことに変わりはない。「人民内部の矛盾」は氷解せず、解決のつかない問題として残ってしまう。
(略)社会主義は、資源の再分配を通じて実質的な平等を実現していこうという強い動機をもっているのだが、その動機(正義の観念)が万能ではないということに等しい(略)。再分配による正義は、ゼロ・サム的な正義(同じパイのどれだけを誰がとるかに関する正義)である。だが、異なる時点にまたがる人びとの間に、ゼロ・サム的な正義は想定しにくい。ことに、人びとが死んだり生まれたりする場合にはなおさらである。
自由主義は、人びとが完全に平等でなくても仕方がない、という断念のうえに成り立っている。現状(初期条件)は現状として、その後の各人の努力の余地(機会)があればよいのではないか。自由主義は、この社会がすみずみまで合理的であることはできないし、その必要もない、この社会に完全な正義を求めることは間違っている、と考えるのだ。
社会主義は、こうした自由主義を、ニヒリズムの現れで倫理的に堕落しているとみて、それを克服しようとする。社会主義の掲げる正義は、自由主義の根にある断念より、まさっているはずだった。にもかかわらず、実は、社会主義の原則を全面的に適用することはできない。社会主義の掲げる正義の観念は、限界をもっている。また、政策的な介入にしても、社会のどこかに現状のまま作動する部分を残しておかないと、実行できない。つまり社会主義は、自由主義と絶縁するどころか、むしろそれを内蔵してしまっている。(後略)(pp.91-93)

自由主義は、社会の自生的な秩序に信頼をおいている。そして、社会主義による政策的介入を好まない。政策的な介入は、人為的な操作であって、社会の自生的な秩序を破壊する。しかも、確実にある人びとに不利益をもたらすのだ。
自由主義は、社会の成員に不利益を強制するような、特定の政策を追求することをしない。だから、社会主義の発想とは正反対で、まったく関係がないようにみえる。だが実は、そうではないのだ。
自由主義は、自由な個々人の相互関係として、社会を考える。個々人は、めいめい権利・義務をそなえた、近代人だ。当事者の自由な活動にまかせておいても、社会がうまく運行すると考えられるのは、それなりの制度的前提あってのことである。自由主義が信頼をおくのは、市場であり、民主政であり、法の支配である。近代人はこうしたものを、社会に自然にそなわったもののように考えるかもわからないが、実はそれは歴史的に獲得されたものだ。近代が、封建社会を喰い破って誕生したことを忘れてはならない。
封建社会から近代社会への移行が、不連続で破局的(catastrophic)な変化なのは、避けられないことのようである。旧勢力は、彼らの利害を守るために、市民階級を迫害した。封建勢力が国土の大部分を隷属させているあいだは、自由主義の作動する余地がない。近代社会が出発するためには、旧勢力の打倒が必要であった。ところでこの改革(市民革命)は、社会の現状に対する政策的介入(すなわち、社会主義の実践)でなくて、何であろう。
このように、自由主義は、一定の制度的な前提を要求する。かりにその前提がみたされないとしたら、それを実現するような政策的介入を行なうだろう。自由主義はある種の社会主義を前提とし、その成果のうえに立っている。つまり、自由主義社会主義なしには成り立たないのである。(pp.93-95)
所謂新自由主義は非常「社会主義」?