コンフリクトと「抵抗」の間

 「女性の静かな抵抗―うつを政治的に読み替える―」
 http://d.hatena.ne.jp/chidarinn/20060725/p2


女性の「うつ」を「抵抗」として読む――これを巡って、波紋が拡がっている。
あらゆる〈病気〉は、〈主体(agent)〉が環境であれ、異物であれ、或いは自己であれ、〈外部〉(或いは〈外部〉とされたもの)との接触において、それとのコンフリクトとして、コンフリクトの効果として生起する*1。勿論、ここでいう「環境」は社会環境を含み、「異物」は他人を含む。故に、鬱病が生起する相関関係の中で、社会的なものが重要な変数として機能していることは当然であるともいえる。
しかし、そこから鬱病を「抵抗」であると断言することの間には、距離、というよりもキエルケゴール的跳躍によってしか克服できないような次元の違いが存在する。それは〈意味(賦与)〉ということが関わっているからだ。また、それと同時に〈主体(agent)〉の定義にも関わっているkmizusawaさん*2は「抵抗」という意味づけに対して、「その状態を主体的に選び取っているかのような」ニュアンスを嗅ぎつけ、違和感を表明している。抵抗でも逃避でも順応でも、ある人の症候をそのように意味づけるのは誰なのかという問題。多分、chidarinnさんはそのことには十分に自覚的なのだと思う。それはまず冒頭において、


こうした女性たちのうつの原因とも言える部分、すなわち主婦業への閉じ込めは、既に女性の生活にみずからかかわっていたベティ・フリーダン(1963『女性の神話』)によって明らかにされています。中産階級の女性は、子育て・家事だけでは気持ちが満たされないこと、そしてそれに対する不満は許されないこと、さらに場合によっては「治療対象」になるという、こういった状況に対して違和感を感じていることに対し「名前のない問題 a problem without a name」と名づけたわけです。男の視点から見れば、そんな問題が存在するとは考えられてこなかったのですから、なるほど、「名前」がないのは当然(世界は男の言葉で男の意味で説明されているから)。しかしまぁ、気づいてから、今まで、進歩がないですね。むしろ悪化??そんなことはない??
と書いているからだ。だから、そのように読むことを敢えて「主体的に選び取っている」ともいえる。そのように読むことを選び取ること、それは他の読み方の可能性を括弧で括ること、或いは〈地〉として取り敢えず隠すことを意味する。括弧はいつでも外せるし、〈地〉もいつでも〈図〉として浮かび上がることができる。これは少し考えれば当たり前なのだが、論争的な場面においては屡々忘却されてしまう。拡がる波紋はこの忘却の効果なのでもないか。
誰が意味を賦与するのかという問題は決定的に重要である。多分、フェミニズムにしても「障害学」*3にしても、その学としての存立に関わっている。ここで話を逸らすと、世界の、或いは事物や出来事の客観的存在可能性は、どの「視点」にも意味賦与にも還元不能であるということに存している。また、このことこそが新たな、それこそ「抵抗」としての意味賦与の可能性の条件でもある。
勿論、鬱病を「抵抗」として読むことの妥当性は問われるべきである。或いは別の読み方の可能性。私の知識では、鬱の人(鬱病になる可能性の高い素質を備えている人)というのは秩序やルーティンへの指向性が強い。発病の契機となるのは、ルーティンの失効、つまり変化である。結婚、離婚、就職、失業、昇進、左遷、転勤、そして季節の変化。秩序やルーティン、それは社会的場面では役割期待であり、役割行為であろう。或いは常識。鬱病というのは秩序やルーティンへの過度の同化・固執の効果なのであり、寧ろ変化してしまう秩序やルーティンに裏切られてしまったともいえるかも知れない。問題は、それにも拘わらず、怠惰というようなレーベルを貼られてしまうこと。ばりばりの愛国者が非国民呼ばわりされるようなものである。「がんばれ」がタブーなのは、本人は既に十分に頑張っているのであり、その上での頑張れは、頑張っても何もできないということで、無力感を引き出してしまうからだ。とすれば、他人が主体的にがんばることのひとつである「抵抗」という意味を他人が賦与してしまうのは、治療的な意味でどうよということにもなる。だから、頑張らなくてもいいというふうに誘導していくのがよさそうに思えるが、これもなかなか困難を含んでいるように思える。そもそも頑張る素質を持っている人は頑張らないことを頑張ってしまうということになるからだ。また、ある程度のいい加減さ、役割距離があった方が役割関係の存続にとっては機能的であるという社会学的帰結もあるのだが、これは余談に属する。

*1:agentの反対語はpatientであるが、〈病気〉とはコンフリクトにおいて能動性のバランスが崩れ、きわめて受動的な情況に陥ってしまうことであるともいえよう。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060726/p3

*3:Cf. http://tu-ta.at.webry.info/200607/article_17.html http://tu-ta.at.webry.info/200607/article_23.html