「不自由」への憧れ?

こういう問題に口を突っ込みのはもしかして火中の栗を拾うようなものなのかも知れない。
曰く、


望んでそうなってるわけじゃないのに「あぶれる」人、「不適応」な人の中には、そうじゃない人たちが不自由だ強権的だと感じるような環境のほうに過ごしやすさを感じる(少なくともマシだと感じる)ケースもあると思う(とりあえず「合わせる」ことはできてるけど正直しんどいという人もかな)。とりあえずルールさえ守っていれば数に入る、正義になれる、少なくとも間違いではないと保障してもらえるような場所のほうが面倒がなくていい。たとえば制服や頭髪などを自由にさせてくれという運動がある。私はそういう運動に反対ではなく、むしろ制服などいらないのでは?と思うほうだが、もしも自分の学生時代が私服だったら、おそらくもっと面倒な思い、嫌な思いをしていただろうなというのは容易に想像がつく。正直言って何着るかとか頭使いたくないしさー。全部決めてもらってたほうがいいよ、いやホント。一人でいる時間以外は、決められたことだけをスケジュールどおりにこなしていればいい生活が楽かも。…こういう感じ。制服だって着こなしの問題はあるが、それでも私服よりはセンスがダサいとかってことは目立たないと思う。もともとその制服がダサかったりすれば特に。…こういった考え方がますます自分をダサくしていくわけだが(汗)。

こういうものの考え方は一般的には「主体性がない」と言われて批判の対象になる。他人と違っていいじゃないか、他人の目などどうでもいいじゃないかという人もいる。それはそうなのだが、違っていることを思い知らされ嫌な思いをしてきた(しかもそれはすべて自分のせいだとされる)人にとっては、場合によっては「あらかじめ決められていて選択の自由がない」「皆個性など無視されて同じことをやるしかない」ほうが息がつけることもある。ただ一般的に言って自主性や選択の自由や多様性は肯定されるべきものと考えられているから、自分にとっては面倒が増えるだけかもしれない場合でも、私はそれには反対しない。それで受けてる恩恵も多大にあるし、そこで強制される「やるべきこと」「みんな同じ」が自分に合わない場合もあるしな。そのとき楽でも選択権なし管理主義マンセーは必ず自分に跳ね返ってくる。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070316/p2

さすがに、kmizusawaさんも周到に書いていて、一筋縄ではいかないぞということを示している。先に自分の立場を記しておけば、理解できるよ、でも勿論認められないということだ。多くの(ミクロ或いはマクロの)「強権」がそのような思いによって存続し続けているということも想像に難くない。また、「強権」者の方でもそのような思いにつけ込んで、そのような思いを抱く者を積極的に支持基盤として取り込んでいくことだろう。ただ、「多様性」というのは私やあなたのためだけに必要なのではなくて、世界が存在し続けるためにこそ必要なのだということはいっておきたい。
政治的・道徳的糾弾ではなく、理論的準位に話を切り替えてみると、選択肢の多さというのはすなわち悩みの多さである。だから、如何にして選択肢を適切な水準まで縮減するのかというのはあらゆる社会制度・文化制度にとって切実な問題である。多くの場合、選択肢を縮減してくれるものを選ぶということにはなる。他人にアドヴァイスを求めたりとか、占いをしてもらったりとか、ガイド・ブック等々を読むというのは、選択肢を縮減してもらうためである。とはいっても、〈選択肢を縮減してくれるもの〉にしても複数あるわけだから、さらにその選択肢を減らすという問題も出てくる。どの占い師に占ってもらうのがいいのかを決めるために占ってもらうということだってありうる。そのような選択の手間、さらには選択に失敗するリスクを考えれば、全く自分は選択に関与しないというのは或る意味では魅力的である。勿論、自分が決めようが他人が決めようが、失敗するときは失敗するのだが、自分が選択に関与しないとき、その失敗の責任を自分で抱え込まなくて済む。或いは、自我を失敗の汚名から守ることができるのだ*1。理解できるといったのはこういうことだ。
その効果として考えられるのは、kmizusawaさんも示唆しているように、自ら選択肢を縮減する能力(それは実際のところ〈選択肢を縮減してくれるもの〉を選択する能力になるわけだが)の衰弱であろう。偶々〈強制〉が空位になると、現実の圧倒的な多様さ、つまり選択肢の厖大さに右往左往してしまう。そのことがさらに強制を強迫的に追い求めさせる。

*1:考えてみれば、自分で決めたって、天気が悪いからだとか風水が悪いからだとか運が悪いからだとか、いくらでも責任を転嫁する仕方はあるのだ。