「わずらわしさ」からの逃避

アルフォンソ・リンギスの『信頼』という本が刊行されているですね。
小田亮*1はそこから、


日々、われわれは、確立した社会システム内の持ち場についている人々と応対する。そのシステム内では、行動は社会的に規定され、公認されている。バスの運転手は決められたルートを通り、銀行の係員は適正なローンを組むと信頼されている。それらの人々の行動に対するわれわれの信頼は、交通や商業システムの機能に関する知識に基づいている。だが、きみを信頼するのは、わたしの知識を超えて、きみというリアルな個人にすがることだ。(中略)自宅を離れ、所属する共同体を離れて、どこか遠い土地にしばらく住むとき、見知らぬ人を、親族関係の絆を持たない相手を、ある共同体や信条に対する共通の忠誠心を持たない人を、契約上の義務を持たない人を、信頼することが毎日のようにある。(中略)われわれは、その言葉や動作を理解できない人物に、理由や動機がわからない人物に、絆を感じる。信頼は、社会的に規定された行動を表わす空間をショートさせ、そこにいるリアルな個人と――きみと――触れあう。

 ひとたびだれかを信頼する決心をすると、魂に浮かぶのは静けさだけではない。そこには興奮と浮きたつ気分がある。信頼は、他の生きものとのもっともよろこばしい絆だ。だが、だれかとともにいることを楽しむとき、そこには危険性の要因があり、同時に信頼の要因があって、それが恍惚ぎりぎりの快楽を与えるのではないだろうか。

という一節を引用し、それを踏まえて、またマイケル・イグナティエフを援用しつつ、

 効率や平等(そもそもそれは国家を超えた平等ではありません)のためにシステムが必要だという議論は、効率や平等がそれほど深刻ではない国での議論です。そしてそれがシステムに任せればいいという議論になってしまうと、リアルな個人への信頼を邪魔してしまいます。行政機構などのシステムによる分配が必要なんだという議論で、私にとって説得力があったのは、効率や平等を言うのではなく、面と向かって直接に援助や分配することの困難さを述べていた、マイケル・イグナティエフの議論でした(たしか『ニーズ・オブ・ストレンジャー』風行社、でだったと思いますが、いまその本が見当たらないので、違っているかもしれません)。誰でも、直接に援助を差し伸べるのは恥ずかしさを感じることですし、相手が負い目を感じるのではないかというためらいもあります。そもそもどうやって渡せばいいのかも慣れていない私たちには難しいことです。分配や援助をシステムに任せれば、そのような気遣いなしにできます。けれども、そのような依存が、気遣いや人を援助するときの術から私たちを疎外しているのも確かです。そして、そのようなわずらわしさ・気遣いから撤退することが、私たちの日常生活から、リンギスのいう「危険性の要因があり、同時に信頼の要因があって、それが恍惚ぎりぎりの快楽を与える」ということをなくしていくことになってしまうのでしょう。
と述べている。
小田氏が使っている「システム」という言葉、これは私がそれを使う場合と意味を異にはしている。所謂ハーバーマス的な用法であろう。また、小田氏がレヴィ=ストロースを踏まえていう「真正な社会のレベル」も常に「システム」に汚染されてしか存立し得ないのではないかということもある。しかし、その区別が理論的、政治的、倫理的というあらゆる準位において重要であることは論を俟たない。
最近、blog圏内で話題になっていることの多くは、小田氏(或いはイグナティエフ)がいう「わずらわしさ・気遣い」からの逃避に関わっているのではないだろうか。例えば、http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070225/p1とかを読まれたい。「幼児がひとりばたばたとせわしなく走り回っている」のがうざければ、「苦情」という迂回路を通るのではなく、自分で直接文句を言うなりなんなりしないのか。
ところで、リンギスのいう無根拠な「信頼」に晒される可能性や必要性は、グローバル化という事態において、減るどころかますます増大しているといえるだろう。何故なら、グローバル化というのは(個人に定位する限り)「自宅を離れ、所属する共同体を離れて、どこか遠い土地にしばらく住む」という経験の可能性の増大として定義することができるからだ。
最後に、ここでの論旨とは関係が薄いが、小田氏の

コミュニタリアンの議論も、国家から村落共同体まで、同じようにコミュニティとして、そこでの「共通善」の重要性を強調する場合が多いのですが(そして、現代のコミュニタリアンは、村落共同体は過去の「閉じられた抑圧的な共同体」であるとして、村落共同体がどのようなものかも知らないのに、現代のコミュニティから除外してしまいます)、「まがいものの社会」の共通善なんて、共通善の名に値しないものであって、たいてい「ほんものの社会」での共通善を均質化して壊した後で創られるものです。
という一節もメモしておく。