声、アメリカの(における)

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139318386で、えこまさんの「日本語と英語と漢文と」*1に言及いたしましたが、内田樹氏の言説が要約されている部分の中の


先生は現代中国論ではよくこうおっしゃられていた。日本と中国はあまり親密すぎず、ちょっと緊張感と危機感がある間柄の方が、アメリカにとっては都合がよい。つまり日中関係がちょっと危うい方がアメリカにとったら「仲介役アイデンティティ」が保てるのだ。
に絡んで、「うに」さん*2が紹介しているBoston Globeの社説” Japan's history lesson”*3をマークしておく。取り敢えずは、内田さんが語る「アメリカ」に対するカウンターエヴィデンスのひとつにはなるんじゃないか。
 しかし、問題は内田さんの見解が正しいとか間違っているといったレヴェルにはないだろう。問題は「アメリカ」を主語に立てて、それに動詞をつけて語ることの妥当性にあるといえる。換言すれば、「アメリカ」それ自体は身体でも主体でもないのだから行為することも思考することもできないという(考えてみれば)至極当然の事実に敏感になろうということである。(例えば、階級とかジェンダーとかエスニシティといった)様々な利害や属性が渦巻き・絡み合っている、あるアジャンスマンが取り敢えず「アメリカ」と名付けられているにすぎない。それは「日本」や「中国」にしても同様である。
 ちょっと前から、内田さんの言説*4に対する梶ピエールさんの批判*5にコメントしようしようと思いながら、していないのだが、そこでも根本的な問題は、〈中国が〉と「中国」を主語とする語りの成立可能性なのではないかと思っている。「中国」を主体にするためには、〈水戸黄門の印籠〉的なタームが必要であるが、〈毛沢東思想〉にせよ、〈中国共産党〉にせよ、はたまた〈儒教〉にせよ、「中国」を主体として支える威光はない。「中国」もまた、「様々な利害や属性が渦巻き・絡み合っている、あるアジャンスマン」にほかならないのだ。
 多分、国際関係(論)の陥穽は、(「アジャンスマン」の一部である)政府とか外交当局のみならず、「アジャンスマン」全体を、切り縮めを伴いつつ、主体化してしまうというところにあるのだろう。