自由主義/保守主義/進歩主義(ダーレンドルフ)

承前*1

政治・社会論集―重要論文選

政治・社会論集―重要論文選

Ralf Dahrendorf「ライフ・チャンス」(加藤秀治郎、吉田博司、田中康夫訳 in 加藤秀治郎編『政治・社会論集 重要論文選』晃洋書房、1998、pp.63-98)


「幸福が捉えどころのないものだということ」と述べられて、ブレヒトの『三文オペラ』から、


そう、しあわせ目指して駈けろ
でも、駈けすぎちゃいけねえ
だって、みんな駈けてみろ
しあわせは、ついていけねえ
という部分が引用されている。この引用の仕方は妥当なのかと思った。このブレヒトの歌は、「幸福が捉えどころのないものだ」ということよりも、寧ろ(幸福という)目標と(幸福を得るための)手段の顚倒に関係あるのではないか。この訳本で引かれているのは(そして私が読んだのは)千田是也訳。私が千田是也訳を最初に読んだときに思ったのは、役者がこの日本語をクルト・ヴァイルの曲に乗せて歌うのは相当にきついよね、ということだ。因みに、高橋悠治訳だと、

しあわせもとめ 駆けだすときも
走りすぎて しあわせを追い越すな
になる*2。『三文オペラ』、既に岩波文庫では千田是也訳に替わって、岩淵達治の新訳が出ているらしいが、岩淵先生はどう訳しているのか。
いちめん菜の花

いちめん菜の花

さて、ダーレンドルフの「自由主義」という、元々1974年に某百科事典の項目として公刊されたテクスト(加藤秀治郎、吉田博司、田中康夫訳、pp.99-115)から。
先ず「自由主義」の定義――「人間不信の中の希望、支配の実際的な必要性を可能な限り緊密に〈最大多数の最大ライフ・チャンス〉と結びつける試み、人間のなすことが完全ではないのを熟知した上での個人の力と権利への信頼、いかほどかの道徳、いかほどかの認識論」(p.100)。それに基づいて、自由主義保守主義または進歩主義との差異が語られる;

保守主義者はたとえ変化を受け入れようとも、変化を、ただ人間の方向性の外にある周辺的な有機的過程としか見なさないのである。他方、進歩主義者は、その綱領的修辞の中で、危険な断固たる主張を展開するのである。そして両者とも、別の方向ではあるが、国家、身分、民族、家族、組織、階級、人民という社会的諸集団を奇妙に偏重するのである。そこでは、組織面での現状固定性と独断的な主張が結びついており、自由主義とは全く異なっている。このようなアプローチの極端なタイプがファシズムであり、政治的態度の尺度では、ファシズム自由主義と正反対に位置する。自由主義的思考の道徳的要素とは、個人こそが重要なのだという確信、そして、この確信から導き出される個人の不可侵性、個人の可能性の発展、個人のライフ・チャンスの擁護、である。集団、組織、制度は、決して自己目的なのではなく、個人の成長という目的のための手段なのである。また、利害関心、希望、要求といったものを有している個人は、社会の発展の原動力でもある。従って社会は第一に、個人の活動空間を創らなければならないし、能力を自由に発揮させねばならない。それが最終的には個々の人間存在を強化する力となるのである。これと関連して法治国家とか市場経済というような概念が重要である。しかし自由主義者個人主義が意味をもつのは、次のような認識論的仮定の文脈においてだけである。つまり、何人も全ての答えを知らない。あるいは、少なくともどの解答にも正しいか誤りかについての確定性はありえない、という認識論的仮定である。われわれは根本的な不確定性の地平に生存しているのである。絶対性に対するそのような疑問から、各々の時点でも通時的にも様々に異なった解答が提出されうるような社会的、政治的条件、つまり〈開かれた社会〉という条件が必要とされる。自由主義者は、〈表現の自由〉および〈変動を許容する政治制度〉、つまり民主主義に関心を持っているが、それはここに理由があるのである。(pp.100-101)
また、「社会民主主義的合意の終焉」というテクスト(加藤秀治郎、吉田博司、田中康夫訳、pp.116-141)から;

自由主義者はつねに、個人と、個人のライフ・チャンスに関心を寄せ、個性の発達を妨げるような拘束を極小化していくことに関心を抱いている。それゆえ自由主義者は、階級、国家、教会、その他何であれ、集合体に偉大な栄光を認めることに抵抗するのである。第二に自由主義者は、人間のライフ・チャンスの地平を広げ、新たな可能性を発掘することに関心を寄せている。その意味で自由主義者は、社会の現状を変えていく勢力である。自由主義者は社会制度を代表するものではなく、何よりも、社会制度を活性化し、前進させようとする諸力の代弁者なのである。(pp.137-138)
さて、ライフ・チャンスの増大を強調するダーレンドルフに対して、ピーター・バーガー(例えば『犠牲のピラミッド』)はネガティヴに〈より少ない痛み〉を強調する。これは自由主義者保守主義者の差異?
Pyramids of Sacrifice

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犠牲のピラミッド―第三世界の現状が問いかけるもの (1976年)

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