「エホバの証人」を巡ってちょっとランダムに

八幡宮」をsectと呼ぶのはどうよということを書いたのだが*1、「エホバ*2の証人」をセクトと呼ぶのは通例といえるだろう。
エホバの証人と輸血の話」と題するエントリー*3で鰤さんが「エホバの証人」の「輸血」を巡る教義の変遷に言及している。また、「輸血」禁止の教義について、聖書解釈のレヴェルで「エホバの証人」の見解を批判している。曰く、「そもそも聖書筆者には輸血などという概念はなかったのだから、むしろ聖書は輸血に関して何もいっていないという解釈の方が素直なのではないだろうか?」。
ところで、鰤さんは「エホバの証人の教義がやたらめったら変更されることは、エホウォッチャーの間では有名な話で、一般的にも知られているのはハルマゲドン予想の変更だろう」。ただ、世俗社会の動向に合わせて教義が変更されるというのは、特に新宗教ではそう珍しくない話だろうとは思う。身近なところでは、1960年代以降の創価学会における「国立戒壇」論の変容とか。因みに、宗門(大石寺)との断絶以降の創価学会の教義の変容に関しては、取り敢えず、


西山茂「変貌する創価学会の今昔」『世界』2004年6月号、pp.170-181*4


をマークしておく。
さて、「エホバの証人」に関して、「エホバの証人」信者を両親に持つ、「消化管内の大量出血で重体となった1歳男児*5の両親の「親権」を一時的に停止して、「輸血」が行われたことが話題になっている*6
エホバの証人」と「輸血」問題に関しては、土屋恵一郎『正義論/自由論』で論じられているのだが(「正義論」第2章「「他者」の学習」)、その中で歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』を参照しつつ、「私たちが、たとえば歌舞伎の舞台の上で、親の忠義のために殺される子供の芝居を見て感動している一方で、親の信仰のために死んでいく子供については、けっしてこうした感動につながらないのはなぜなのか」(p.182)と自問されている箇所をマークしておく。土屋氏はここで「エホバの証人」に関しては、大泉実成氏のテクストに依拠しているのだが、大泉氏の『説得』は「エホバの証人」と「輸血」問題に関して、今でも重要なテクストであるといえる。

正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫)

正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫)

説得―エホバの証人と輸血拒否事件 (講談社文庫)

説得―エホバの証人と輸血拒否事件 (講談社文庫)

今回の「親権停止」事件だが、「輸血」されたのが「1歳男児」であるし、報道を読む限りでは「輸血」が医学的に不可避であったようなので、医療ティームの側が「輸血」を強行したことについては支持できると思う。ただ、「親権停止」という司法による介入が必要だったかどうか。現在の「エホバの証人」側の解釈によれば、「信者の意思に反して強制輸血された場合でも、それは信者の意思を無視しているので、信者の意思と動機においては、けっして信仰を破ったことにならない」(土屋、p.205)。つまり、粛々と強行しても問題はなかったのだ。或いは、司法による介入は宜しくない前例を作ってしまったといえるかも知れない。今回のことがひとつの判例となって、「エホバの証人」の子どもが患者である場合、一時的に「親権停止」を行うということが恒例になってしまったら、どうなのか。デリダ(『法の力』その他)を俟つまでもなく*7、自動的・機械的に適用される(当事者に思考を要請しない)法というのは「正義」とは無関係なのだ。それは問題に対するフレクシブルな対応を妨げるだけでなく、実は(テクノロジーとしての)医療の発展にとってもマイナスになるだろう。「輸血」は駄目という「エホバの証人」は医学的にはトンデモに属するだろう。しかし、信仰の自由・良心の自由というリベラリズムの原則と医療の実践を摺り合わせるために、「無輸血手術」が技術的に発展・成熟してきたということはないのか。もしそうだとすれば、「エホバの証人」はそのトンデモな横槍によって、医療の発展に寄与してきたといえないか。トンデモな横槍に対する対応がテクノロジー発展の梃子になるというのは、そう珍しくない話なのだろう。クール宅急便が始まったのは、生魚を宅急便で送って腐ったからどうにかしろという馬鹿野郎のクレームをきっかけとしてだった。
法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

勿論、医療関係者が「エホバの証人」に屈服しなければいけないと言っているわけではない。要は、技術的可能性その他を綜合的に勘案して、ケース・バイ・ケースで対応することなのだ。逆に、「エホバの証人」側にもケース・バイ・ケースでの対応を要請する権利は医療関係者にある。土屋氏は「カズイスティック」(決疑論→「ケース」=「場合と条件の学問」[p.206])について、

神学と法律学が、ケース(場合・条件)のなかに生きる人間たちのことを考えざるをえないのは、人間の現実の方が、聖書や法律よりも複雑であるからだ。複雑な現実を無視して、聖書と法律の言葉を徹底させようとすれば、人間の生きる道はなくなる。神のカリタスがなければ、人間は生きてはいけない。(p.210)
と述べている。
さて、「エホバの証人」を「カルト」と呼ぶ人もいるが、「エホバの証人」は「カルト」と呼ばれる多くの集団のような世俗社会への攻撃性はない。この人たちが拒否しているのは〈この世〉的なものへのコミットメントであるから。日本では、「エホバの証人」といえば、「灯台社」による徴兵拒否運動が有名であるが、これも平和主義のような世俗的イデオロギーによるのではなく、戦争という〈この世〉的なものへのコミットメントの拒否によるもの。同様に、たしか、選挙への参加や公務員になることも禁止している筈。とはいっても、世界的にも、「良心的兵役拒否」の権利の確立に対する「エホバの証人」の(意図せざる)貢献は大きいといえるだろう*8。また、「ハルマゲドン」を強調するが、「エホバの証人」にとって「ハルマゲドン」は完全に神の業であり、人間はただ見物するしかないのである(だから、「証人」)。
明石順三と灯台社について、鰤さんは稲垣真美『兵役を拒否した日本人』を紹介されているのだが*9、それに加えて、小池健治、西川重則、村上重良編『宗教弾圧を語る』も紹介しておきます。こちらも絶版ですが。
宗教弾圧を語る (岩波新書 黄版 61)

宗教弾圧を語る (岩波新書 黄版 61)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070624/1182695677

訂正:
うろ覚えで書いてしまったのですが、『宗教弾圧を語る』で採り上げられているのは、灯台社ではなく、「ホーリネス教団」です。
現在の教団のサイトはhttp://www.jhc.or.jp/home/index.php