生活指導@カナダ

承前*1

http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-2041.html


国母和宏氏について。
またまた〈生活指導教師の目線〉見っけ! 「服装の乱れは心の乱れを表しているとはよく言ったものだ」だってさ。blogのタイトルを『カナダde日本語』から《カナダde生活指導》に変えたら如何? 勿論「普通の服装を着ていても、視聴者に不快感を与える選手だ」と思うのは、審美観の問題なので、そう思う人の勝手なのだが。こういうことは言うべきではないのかも知れないが、彼女が熱愛しているらしい植草一秀*2の〈生活指導〉はどうよと言いたくはなる。指の乱れは心の乱れを表しているとはよく言ったものだ。

精進バーガーは如何?

承前*1

『よんななニュース』(共同通信)の記事;


仏、ブルカの次はバーガー論争 イスラム嫌い浮き彫り

 【パリ共同】フランスの大手ハンバーガー・チェーンが、イスラム教徒の多い地域の一部店舗を、イスラム教にのっとったことを示す「ハラル」の食材を使う専門店にしたところ、自治体の首長が「他の宗教の客に対する差別だ」と告訴するなど批判が起き、大きな論争になっている。

 同国では、イスラム教徒女性の全身を覆う衣装「ブルカ」の着用をめぐり、公共の場所で禁止する方向が議会の報告書で示されたばかり。批判の高まりはフランス社会における「イスラム嫌い」の広がりを示しているとの分析もある。

 問題となったのは、350店舗を展開する「クイック」。イスラム教徒が多く住む北部ルーベや南部マルセイユなどの8店舗を実験的にハラルの専門店とし、ベーコンを七面鳥の薫製に代え、牛肉も専門の解体処理をしたものに代えた。

 これに対しルーベの市長が、ハンバーガー店がイスラム教徒向きの食品しか置かないのは「差別だ」として検察当局に告訴。マルセイユ市長も「(商品に)選択の自由が必要だ」と批判した。
2010/02/25 16:15 【共同通信
http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010022501000552.html

イスラム教徒向きの食品しか置かないのは「差別だ」」というのは殆ど在特会的なロジック。「ハラル」の料理を非ムスリムが食べていけないということはない。モスバーガーみたいな合挽ではなく純粋なビーフのパテを通常使っているとしたら、「ハラル」であってもハンバーグの味は殆ど変わらない筈。それよりも問題なのは「ベーコン」がないのが問題なのかも知れないが、それは他の店に行って下さいということでいいのだろう。「選択の自由が必要だ」という「マルセイユ市長」の「批判」を真に受けてしまうと、全てのファスト・フード屋が「ハラル」、それからユダヤ教徒向けのKosher*2その他のあらゆる選択肢を用意しなければいけなくなって、話は却ってややこしくなってしまう。
普通ムスリム系のレストランというのは(俺の知っている限りでは)看板にアラビア文字を使ったりしてイスラームらしさを演出しているものなのだが、元の記事にある店舗の写真を見る限り、そうした演出はないようだ。それよりも、Breakfastという英語がでかでかと書いてある方が仏蘭西ナショナリズムを刺戟するのではないか。Dejeunerと書け! 店の名前のQuickも英語だ。Prompt若しくはRapideにしなくちゃ。
ところで、ヴェジタリアンも当て込んで、精進バーガーの専門店を展開すれば、かなりいけると思うのだが、その場合も、肉食者に対する「差別」だということになるのか。

スーフィズム@ラホール

SABRINA TAVERNISE “Mystical Form of Islam Suits Sufis in Pakistan” http://www.nytimes.com/2010/02/26/world/worldspecial/26lahore.html


パキスタンのラホールで先月開かれた、11世紀のスーフィ行者Ali bin Usman al-Hajveriの命日を記念する祭りについて。記事に曰く、


Thousands of Muslim worshipers paid tribute to the patron saint of this eastern Pakistani city this month by dancing, drumming and smoking pot.

It is not an image one ordinarily associates with Pakistan, a country whose tormented western border region dominates the news. But it is an important part of how Islam is practiced here, a tradition that goes back a thousand years to Islam’s roots in South Asia.

It is Sufism, a mystical form of Islam brought into South Asia by wandering thinkers who spread the religion east from the Arabian Peninsula. They carried a message of equality that was deeply appealing to indigenous societies riven by caste and poverty. To this day, Sufi shrines stand out in Islam for allowing women free access.

In modern times, Pakistan’s Sufis have been challenged by a stricter form of Islam that dominates in Saudi Arabia. That orthodox, often political Islam was encouraged in Pakistan in the 1980s by the American-supported dictator, Muhammad Zia ul-Haq. Since then, the fundamentalists’ aggressive stance has tended to eclipse that of their moderate kin, whose shrines and processions have become targets in the war here.

But if last week’s stomping, twirling, singing, drumming kaleidoscope of a crowd is any indication, Sufism still has a powerful appeal.

聖者Ali bin Usman al-Hajveri(愛称はData Ganj Baksh=宝を与える者)について、Raza Rumi “Data Ganj Baksh: Lahore’s oldest guide”という2009年の記事*1から少し引用しておく;

Living nearly 11 centuries ago, Syed Ali bin Usman Al Hajveri was not a Lahori but a resident of Lahore’s cultural step-cousin, Ghazni, until he arrived in India and wandered in northern India before settling in Lahore for the last 34 years of his life. This was the time when mystics from Central Asia, in their constant urge to discover new vistas of spiritual exploration, started to travel and settle in different parts of the Indian subcontinent. It remains a mystery as to why Data Ganj Bakhsh would have chosen Lahore as the final stop in his life long journey. Perhaps the secular interpretation could be that Lahore was an inevitable stop over for all the Central Asian and Turkic caravans and armies and provided the right kind of environment for a foreign mystic to amalgamate into. A little before Ganj Bakhsh’s arrival, Lahore had been resurrected from the earlier ravages of time by the Ghaznavid ruler Mahmood and his son Masood.

During the 34 years of his Lahore residence, Ali Hajveri became the most revered of dervishes whose inclusive and tolerant mystical path attracted the majority of its non-Muslim population. Let us not forget that the non-Muslim population was also a subject of a pernicious caste hierarchy where access to templar gods and clerical blessings was denied to a good number of the population. This was the beginning of a centuries’ long process of peaceful conversions. Islam’s egalitarianism and its larger message of equality before God was quite a magical idea for many, not to mention that the Sufi path did not require conversion per se. This is why Data Darbar has been a hub of inter-communal quests for spiritual attainment.

Other than that, Ali Hajveri’s important contribution to the corpus of documented mystical thought is the treatise that he authored and left for posterity. Known as Kashf- al- Mahjub, or “Unveiling of the Hidden,” it is a monumental document striking for its communicative tone and systematic way of discussing mysticism.

NYTの記事にもあるように、アラビアの東、印度世界や東南亜細亜へのイスラームの伝播にスーフィズムの功績が大きかったということはいうまでもないが、アラビアの西、つまりアフリカ大陸へのイスラームの伝播に対するスーフィズムの貢献も無視することはできないだろう。スーフィズムに関しては、ここで私市正年『イスラム聖者』をマークしておく。
イスラム聖者―奇跡・予言・癒しの世界 (講談社現代新書)

イスラム聖者―奇跡・予言・癒しの世界 (講談社現代新書)

スーフィズムについては、例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060824/1156417435 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176869274 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070927/1190866367 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090403/1238775017 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090716/1247720308で言及している。

ナマモノだから、など

承前*1

小学生の頃、モーツァルトシューベルトの『未完成交響曲』は〈蜜柑せい〉だと数年間に亙って思っていたことがある。
それはさて措き、蜜柑が腐るのはそれがナマモノだからであり、もし放置しても腐らないようだったら、何か変な防腐剤でも入っているんじゃないかと疑うのが常識というものだろう。
それもさて措き、基督教的図像学では、蜜柑を含むフルーツは、見た目は小綺麗なもののやがて腐ってしまうこの世的な美や快楽、虚栄を象徴していた筈。また、フルーツは腐っても悪臭ではなく甘い芳香を発するので、美や快楽と道徳との緊張関係、矛盾をも表していることになる。禁断の果実という言葉もあるし。

上海国際文学節 

承前*1

“Best of the Fest” CityWeekend 25 February 2010, pp.10-15


3月の上海は上海国際文学節(Shanghai International Literary Festival=SILF)の月。
以下、CityWeekendの記事を基にしながら、自分用にメモ。
中国大陸の作家では、張藝謀の映画『大紅燈籠高高挂(Raise Red Lantern)』*2の原作者である蘇童*3(3月13日5時GM*4)、それから畢飛宇*5(3月7日4時CR*6)。さらに目玉とされるのはドミニカ系米国人の小説家Junot Diaz。2008年にピュリッツァー賞を受賞したThe Brief Life of Oscar WaoNYTのMichiko Kakutaniは”It can only be described as Mario Vargas Llosa meets Star Trek meets David Foster Wallace meets Kanye West.”と評している(3月7日5時GB)。印度の歴史家でコラムニストのRamanchandra Guha(3月14日1時GB)。主著はIndia After Gandhiトークのテーマはガンディについて。環境問題専門家でThe Future History of the Arcticの著者Charles Emmerson(3月13日1時GB)。戦争特派員でBookseller of Kabulの著者Asne Seierstad(3月6日3時GB)。また、最近中国旅行記Country Driving: A Journey Through China from Farm to Factoryを出版したPeter Hessler(3月21日5時GB)。フィリピンの作家で、Soledad’s Sisterで2007 Man Asia Literary Prize候補となったJose Dalisay(3月14日2時CR)。キューバにおける米国資本の砂糖黍畑と銅山を描いた歴史小説Telex from Cubaで2008年度National Book Award候補となったRachel Kushner(3月13日4時CR)。The Year of the Shanghai Sharkで2009 Commonwealth Writer’s Best First Book for South East Asia and Pacific Awardを受賞した、シンガポール生まれ・ニュージーランド在住の華人作家Mo Zhi Hong(3月20日4時CR)。1919年にモンゴルの実質的支配者に一時的になった独逸人Ungern-Sterberg男爵の伝記The Bloody White Baronの著者James Palmer(3月21日3時GB)。マレーシア華人作家で、The Harmony Silk Factoryの作者Tash Aw(3月21日3時GB)。ポル・ポト派から逃れて来た中国系カンボディア人の娘としてメルボルンに生まれ、2006年に回想録Unpolished Gemを刊行したAlice Pung(3月14日正午CR)。さらに注目すべき企画は”Framing Queer Asia: Cultural and Legal Perspectives”。中国大陸の活動家Zhou Danと香港嶺南大学のCS教授John Enriの対談(3月6日5時GB)。

紅夢【字幕版】 [VHS]

紅夢【字幕版】 [VHS]

各セッションは原則として英語で、1ドリンク込みで65元。Alice PungとPeter Hesslerのトークは聴きに行こうと思っている。
See http://www.m-literaryfestival.com/
http://www.cityweekend.com.cn/SILF2010


3月5日に芷江夢工場で、Dance for Haiti。上海で初のハイティ大地震チャリティ・ライヴ。出演はWeghur*7、Lions of Puxi*8、Duck Fight Goose、Monroe Stahr、Wayne’s Basement、Studio 188。
See Dan Shapiro “Gimme Shelter” CityWeekend 25 February 2010, p.28

ただの変換手段

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100227/1267241373


こういう話というのは前からネット上では散見されていたわけだが、帝京だとはいっても一応大学教授がこういうことを書いちゃうというところにニュース・ヴァリューがあるのだといえる。それにしても、薬害エイズ事件といい、これといい、帝京大学というのはどうも〈血〉に縁があるようだ。
したいのはそういう話ではなかった。元ネタのhttp://isinnsha.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-0e47.htmlだが、URLのサブドメインに注目してみる。漢字に直すと、維新者となるのだろうか。また、siとshaで、訓令式ヘボン式が混ざっているぞということにもなる。城内実の"ozawakannjicyou"*1でもそうなのだが、nが重複している。
日本語の羅馬字表記というのは、漢字や仮名の読めない外国人に発音を示すため、また外国語を書くときにその中に日本語の語彙を組み込むために使うのだと思っていた。でも、それは世間知らずな考え方だった。少なからぬ日本人にとって羅馬字というのはそんな意味を持っていない。たんにPCで漢字や仮名を入力するための手段にすぎないのだ。そこで、nの重複というのが意味を持ってくる。つまり、nを2回打つと〈ん〉という仮名になる。とはいっても、kanjichouと続けて打てば、一発でかんじちょう→幹事長となる。2回打つ必要があるのは語尾の〈ん〉だけだ。この人たちは、もしかして、1字ずつ平仮名に直して、それから徐に漢字変換をしているのか。そういう疑問が新たに出て来たのだが、この人たちにとって、羅馬字は変換手段にすぎず、だから訓令式でもヘボン式でも、はたまたcyoという変な綴りでも変換できりゃそれでいいということになるのだろう。

紅衛兵の墓(重慶)

楊継斌「最後的武闘罹難者墓群」『南方週末』2010年2月25日


文化大革命初期の1966〜1967年にかけて、重慶市では「8.15」と「反到底」という2つの紅衛兵セクトが武闘を繰り広げ、連日相互殺戮を繰り返していた。
最近、そのうちの「8.15」派の戦死者を葬った墓地が「重慶市級文物保護単位」、つまり重要文化財に指定された。場所は市内の「沙坪垻公園」の一角で、敷地面積約3000m2。この一帯は1930年代から墓地として用いられ、周恩来の父親の墓もここにある。また、1990年に再建されたカトリック教会が隣接する。
最初、「8.15」派では、味方の戦死者は、敵の罪業の証拠として埋葬せずに放置していたが、屍体が腐敗して蝿が集り始めたので、この地に埋葬することにしたという。墓地の造営は、1967年9月に両派の間で「停戦協議」が結ばれた後に始められたが、本格的な造営は、1968年に中央が武闘を禁止し、紅衛兵武装解除を決定し、1969年1月に武闘が完全に終熄して以降。ここには113基の墓があり、531名が葬られている(武闘の直接の戦死者は404名)。死者の最低年齢は14、最高年齢は60。墓には姓名、所属単位、死亡時刻が刻まれている。また、墓には大小があるが、それは死者の所属単位の大小を反映しているという。所属組織を持たない農民の墓はきわめて小さい。ここのほかにも、重慶市内の大学や工場で自らの「烈士」墓が建立されたが、それらの殆どは文革終了後に取り壊されてしまったという。この墓地も文革終了後、何度も取り壊しの危機に瀕してきたが、2008年に中国の文化財保護政策が人民公社大躍進運動文革関係の遺跡の積極的保護に転換したという。
当時「8.15」派の政治委員で埋葬及び墓地造営の責任者だった周家瑜は1976年に懲役16年の判決を受け、1992年に出所した。奇妙なことに、「8.15」と「反到底」は連日相互殺戮を繰り返したにも拘わらず、双方のメンバーの間では、武闘の最中もプライヴェートでは親しい関係が続いていたという。
この墓地については、早くも1995年に陳暁文が香港中文大学発行の『二十一世紀』に「重慶紅衛兵墓地素描」という論文を寄稿している。陳氏は地元の重慶出版社の編集者で、文化大革命研究家。