紅衛兵の墓(重慶)

楊継斌「最後的武闘罹難者墓群」『南方週末』2010年2月25日


文化大革命初期の1966〜1967年にかけて、重慶市では「8.15」と「反到底」という2つの紅衛兵セクトが武闘を繰り広げ、連日相互殺戮を繰り返していた。
最近、そのうちの「8.15」派の戦死者を葬った墓地が「重慶市級文物保護単位」、つまり重要文化財に指定された。場所は市内の「沙坪垻公園」の一角で、敷地面積約3000m2。この一帯は1930年代から墓地として用いられ、周恩来の父親の墓もここにある。また、1990年に再建されたカトリック教会が隣接する。
最初、「8.15」派では、味方の戦死者は、敵の罪業の証拠として埋葬せずに放置していたが、屍体が腐敗して蝿が集り始めたので、この地に埋葬することにしたという。墓地の造営は、1967年9月に両派の間で「停戦協議」が結ばれた後に始められたが、本格的な造営は、1968年に中央が武闘を禁止し、紅衛兵武装解除を決定し、1969年1月に武闘が完全に終熄して以降。ここには113基の墓があり、531名が葬られている(武闘の直接の戦死者は404名)。死者の最低年齢は14、最高年齢は60。墓には姓名、所属単位、死亡時刻が刻まれている。また、墓には大小があるが、それは死者の所属単位の大小を反映しているという。所属組織を持たない農民の墓はきわめて小さい。ここのほかにも、重慶市内の大学や工場で自らの「烈士」墓が建立されたが、それらの殆どは文革終了後に取り壊されてしまったという。この墓地も文革終了後、何度も取り壊しの危機に瀕してきたが、2008年に中国の文化財保護政策が人民公社大躍進運動文革関係の遺跡の積極的保護に転換したという。
当時「8.15」派の政治委員で埋葬及び墓地造営の責任者だった周家瑜は1976年に懲役16年の判決を受け、1992年に出所した。奇妙なことに、「8.15」と「反到底」は連日相互殺戮を繰り返したにも拘わらず、双方のメンバーの間では、武闘の最中もプライヴェートでは親しい関係が続いていたという。
この墓地については、早くも1995年に陳暁文が香港中文大学発行の『二十一世紀』に「重慶紅衛兵墓地素描」という論文を寄稿している。陳氏は地元の重慶出版社の編集者で、文化大革命研究家。