103歳の大野一雄

『神奈川新聞』の記事;


「命の姿 父に重ね」舞踏の大家大野一雄さん介護する慶人さん/横浜
2009年12月9日


 白塗りの奇怪ないでたち、不規則に動かされる四肢。前衛の舞台芸術「舞踏」の世界的大家、大野一雄さんが表舞台から去り、久しい。103歳、アルツハイマー病。いま、横浜市保土ケ谷区の自宅ベッドで静かに横たわる。自身も舞踏の第一人者で、介護にあたる次男・慶人さん(71)は言う。「大野一雄は舞踏家であり続けている」。その老いを見詰め、「命のかたち」を伝えようとしている。

 高台の住宅地、階段が100段以上続く先に「大野一雄舞踏研究所」はある。国内外のダンサーや芸術家、その卵たちの来訪が絶えない舞踏の「聖地」。自宅は、その隣だ。

 「もう車いすに座ることもできなくなった。耳だけは聞こえている。音楽をかけると『アー、ウー』と言っていたのが静かになる。ああ、退屈していたのかと分かります」。慶人さんがふっと表情を和ませた。

 最後の「舞台」は2006年1月、100歳の記念公演だった。車いすの上、動くこともままならぬ姿に、人は病の進行を悟った。

 独創にして繊細、難解にして示唆的。「暗黒舞踏」の旗手、故・土方巽とともに切り開いた新たな地平、舞踏とは何であったのか。

 かつて大野さんは言った。「命を大事にするということです」。慶人さんが引き合いに出すのは一枚の水墨画俵屋宗達作「蓮(れん)池(ち)水(すい)禽(きん)図(ず)」。描かれたハスの花は、水面のカイツブリが飛び立つ羽ばたき一つで、いままさに散り落ちようとしている。「散り際の美と緊張感。日本ならではの感性が根底にある。私もこの年になって、大野一雄の言葉が心に沈むようになった」

 命へのまなざし。原点は戦争体験にあった。出征した中国で見た兵士の狂気、餓死と隣り合わせだったニューギニアでの敗走。「引き揚げ船で栄養失調で死んでいった仲間の水葬を見て、クラゲのダンスを踊りたいと思ったそうです」

 目を覚ましているのか、いないのか。流動食をはみ、排せつし、寝る。寄り添う慶人さんのまなざしは揺るぎない。「限りまで尽くす。そうやって命のかたちを伝えている」。前衛の巨人は、後継者の息吹をその横に感じながら、動かぬままに舞踏を舞っている。

 「当たり前に動くその動きをより繊細に、丁寧に。きっと違うものが伝わるはずです」。週3回、舞踏研究所で開かれるけいこの中心に、慶人さんがいる。70歳を超え、体に不調を覚えることも増えたが、「例えば、イスラエルで兵役を終えた男性がなぜここにやってくるのか。こういう時代だからこそ、大野一雄が残してきたものを伝えなければと思っている」。慶人さんは13日、公演のためハンガリーブルガリアに向かう。
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/0912090006/

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070417/1176782623

「中内功の祟り」?

承前*1

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/11/1129-5d50.html


「大手スーパー」の「低価格競争」が「メーカー」を圧迫しているという話。そのことが余計「低価格商品」の顧客を増やすことになっている。
少し抜き書き;


デフレ経済を肯定的にしか捉えることのできない新自由主義者(正確には新古典派経済学派)は、低価格競争を企業努力として肯定的にしか評価できない。内需の掘り起こしについて無頓着である。
しかし、低価格競争を社会全体で繰り返すと、国際競争もあいまってやがては貧困国並みの経済水準に平準化されることになるのではないか。それはこの国が蓄積してきた技術力やノウハウを守る術を失う結果になるのではないか。

近所の大きなスーパーの棚が、プライベートブランドだらけになってきている。いくつかの食材では品物が選べない。昔の社会主義国みたいに単一のブランドしかない社会で買い物しているみたいで、味気ない。プライベートブランド商品は、いつ、どんなメーカーで作られたのかという痕跡もなく、気味が悪い。
これに対しては、「中内功の祟り」という意見あり。「菅原道真のように神社を建てて供養するのがいいと思う」とも*2。たしかに、中内さんの晩年は惨かったようだ。かつてのダイエー関係者は葬式にも出なかったとか。彼の無念については、 佐野眞一中内功死去 九月の六日間」(『月刊百科』518、pp.2-9)とかを参照のこと*3。それから、実は「功」という字は間違い。旁は「力」ではなく「刀」。勿論、この異体字はJISコードに入っていない。これも「祟り」の原因のひとつかも。

アイルランド再びなど

承前*1


PledgeCrew*2 2009/12/08 21:37
ふと思い出しましたが、会津士族の東海散士こと柴四郎が書いた「佳人之奇遇」に、紅蓮という愛蘭土独立の女性闘士が出てきますね。もう一人、西班牙出身の幽蘭という美女も登場しますが、なぜかどちらも名前が中国風。

漢字と片仮名の漢文調なので、とても全部は読めませんが、そこではイギリスの支配下にある愛蘭土と、幕末・明治の日本とが同様の境遇にあるものとしてたしかに重ね合わされています。だとすると、アイルランドと日本を重ねる発想は結構古いし、事実ナショナリズムの鼓吹に役立ったということになりますね。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091208/1260270282#c1260275865

これを読んで思い出したのはベネディクト・アンダーソンのこと。曰く、

わたしは幸運なことに、複合的な家族背景を有しています。父はアイルランド人で、母はイギリス人です。アイルランドは、一九二一年までイギリスの植民地であり、独立当時わたしの父は、二八歳でした。
わたしの父自身も、ある意味で異種混交とも言えます。祖母方の家系は、真正なアイルランドの古いカトリックであり、一七九九年から一八九〇年までの期間、合法非合法を問わずナショナリスト運動の活発な参加者でした。それに対し、祖父方の家系は、一七世紀後半に土地を獲得し、徐々に「忠良なイギリス系アイルランド人」となっていった「入植者」で、インドや東南アジアにおける大英帝国のために多くの兵士を供給している家系です。
この二つの家系が混じり合ったのは、およそ一八五〇年頃です。ナショナリストの家系が帝国主義の家系と混じり合ったのです。わたしの父は、そんなわけで、一八九三年にペナンで、大英帝国の少佐の家に生まれました。そこは退役軍人たちの集う場所だったのです。アイルランドの家系はまた、プロテスタントカトリックの混合でした。そして子供の頃わたしは、両方の教会に通うことになったのです。
わたしの父は生涯の多くを中国で暮らしました。一九一四年から一九四一年のあいだ、大英帝国の税関官吏として活躍し、中国語の会話と読み書きに長けていました。中国と中国の人々を愛していましたが、自分が勤めたあらゆる政府を嫌悪していました。こうしてわたしは、中国の昆明で、一九三六年に生まれることになったのです。
太平洋戦争が開始される前夜、父は、重い病気を患い、アイルランドに家族を連れて戻りたいと望むようになりました。しかし大西洋の潜水艦戦が激化していたために、わたしたちの家族は、アメリカで三年間を過ごすはめになりました。妹はそこで生まれました。わたしは、最初の教育を、カリフォルニアのひどい学校で受けたのです。
一九四五年になって、わたしたちは、ようやくふるさとに帰れました。父が亡くなったのは、その翌年、わたしが十歳の時です。母は、父の死後もアイルランドにとどまることを決めましたが、わたしをラテン語の家庭教師のものへ通わせました。やがてわたしは、イギリスのエリート小学校へやられることになりました。気持ちとしては、とてもアイリッシュなままで。この学校でわたしは、イギリスのもっとも有名な高校へ行くための奨学金を獲得したのです。(「『想像の共同体』を振り返る」in 梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』、pp. 20-22)
梅森氏もいうように、アンダーソンが「アイルランド国籍」を持っていることを知っている人はそれほど多くないのでは(「アンダーソン事始」、p.113)?
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

アンダーソンがこの本でアイルランド独立運動に言及しているのは何故か、今引用した箇所だけ。別の講演(「アジアの初期ナショナリズムのグローバルな基盤」)では、明治の政治小説家、末広鉄腸がフィリピンの独立運動家、ホセ・リサールをモデルとした小説(『大海原』)を書いていることが語られている(pp.73-75)。
アイルランド独立運動が世界的にどれだけ影響を持ったのかはわかりませんが、明治時代、つまり19世紀後半は独立運動1921年の(南半分の)独立に向けて高揚した時期だと考えられるので、それが東洋の「ナショナリズムの鼓吹に役立った」としても不思議ではない。ところで、もしかして、「東海散士」は「愛蘭土」を「会津*3に重ねているのでは? 話は違うけれど、佐伯彰一(『外から見た近代日本』)が、同じ内戦に負けた者として、会津を初めとする東北人は米国の南部に共感するところが大だったのではないかと言っていたような気がする。明治の日本で、反列強的なナショナリズムを掻き立てたのは、内村鑑三もそうだったわけですが、やはり南アフリカボーア戦争でしょう。19世紀には反帝国主義の闘士と称えられたボーア人が20世紀には最悪のレイシズムの悪名を轟かせたアパルトヘイト体制を作ってしまうのは皮肉と言えば皮肉。また、逆にボーア戦争は、英国本国における(帝国主義的)ナショナリズムを活性化させる契機ともなった(井野瀬久美恵『子どもたちの大英帝国』)。

岡正雄2――「エトノス」へ(メモ)

承前*1

阿部純一郎「20世紀前半日本の人種・民族研究における「異種混交」現象への応答――自然/文化科学の境界線をめぐる論争――」『名古屋大学社会学論集』29*2、2009、pp.21-46


第3節「「文化」から「エトノス」へ――岡正雄の場合」の後半。
「1940年代になると、岡の論考から人種研究への批判的言及は少なくなり、かわって民族学民俗学を「エトノス」の学として統合するという関心が前面化する」(p.30)。


岡は「現代民族学の諸問題」(1943)のなかで、今日の民族学が克服すべき課題を列挙している(略)(1)*3世界を文字/無文字社会に分割し、その対象を後者の原始未開社会に限定してきた点と、(2)専ら「文化」研究に終始し、その担い手の感情・意識・意志といった「主観的な方面への顧慮」を欠いてきた点(略)。ここで重要なのは、上記の問題を、岡が「エトノス」の概念を導入することで同時に乗り越えようとしている点である。(p.31)
「東亜民族学の一つの在り方」(1944)において、「岡は、民族学民俗学との違いを、それぞれの学問が発生してきた地域の国民国家形成の違い、単純にいえば、いち早く帝国主義的段階に進んだ英仏西欧諸国と、それに立ち遅れた中東欧諸国との民族意識の差に求めている」(ibid.)。「東亜民族学の一つの在り方」からの引用;

現代民族学の直接の起源が十五世紀以来の「欧羅巴」の膨脹発展に伴ふ異民族の発見、これとの接触にあつたことは云ふ迄もない。従つて従来の民族学欧羅巴「外」のエキゾティックな異民族研究であり、謂はば「外」に向けられた異質研究の「異」民族学であり又「多」民族学(Volkerkunde)であつた因縁伝統も理解せらるるのである。然るに之に反し民俗学は一民族の民族としての自己発見、自己認識の学問であり、民族の政治文化的自覚、民族意識の発達に促された民族の自己究明の学問であつた。従つてこれが「単」民族学(Volkskunde)又「自」民族学として成長した所以であり、いはば「内」に向けられた同質研究の民族学なのである。

まず民族学民俗学が、「異」「多」「外」民族学と「自」「単」「内」民族学とされている点を確認しておこう。つまり二つのミンゾク学が、同じ「エトノス」の学として語られ、その共通性の下での調査対象の差に翻訳されているのである。っこうして両者を共通の地平に置いたうえで、次に岡は、今日の東欧・南欧諸国の民族学について、その対象が自国の民族だけではなく、それと同祖的関係にある異国の諸民族にまで拡大していることを紹介し、かつこの展開は学問的にいえば、自・単・内の民族学が異・多・外の民族学を包摂し、より高次の自・単の民族学へと発展したことを示していると説明する。そして最後に岡は、これと同様の過程が、同じく後進諸国の系列に位置づけられる日本にも「東亜民族学」として生起しうるし、また実現させる必要があると論じている。(略)これは調査対象によって民俗学から隔てられてきた民族学の限界((1))を解消するために、両者を自己発展の可能性をもつ「エトノス」という動態的主体の学問に位置づけた((2))と解釈することができる。こうして岡の民族学は、「日本民族」というエトノスの対外発展と歩調を合わせつつ、その学問的領土に本国および植民地の諸民族をともに包み込むことが可能となる。(pp.31-32)
この論文では「東亜民族学」ならぬ「大東亜民俗学」についての川村湊の2つのテクストがビブリオグラフィに挙げられている;


『「大東亜民俗学」の虚実』講談社、1996
植民地主義民俗学民族学」in 『民俗学がわかる。』(AERA Mook 32)、1997

民俗学がわかる。 (アエラムック (32))

民俗学がわかる。 (アエラムック (32))

「四馬路」など

陸蓓葉「“四馬路”尋芳」『TimeOut上海』2009年12月号、p.7


現在の福州路をかつて「四馬路」といった。「大馬路」である南京路を起点として、北から順番に「二馬路」(九江路)、「三馬路」(漢口路)、「四馬路」(福州路)と呼ばれた*1。「四馬路」は上海随一の売春窟だった。その形成について、以前は英国人は殖民地に競馬場と売春宿を真っ先に作りたがるものだと、あまり根拠なく思っていたのだが、実は太平天国と関係がある。1861年太平天国が南京と江南一帯を占領した時、売春禁止令を出した。そのため、商売ができなくなった遊女たちは(太平天国も手を出せない)上海の英国租界に逃げ込んだ。また、現在でも福州路は書店の多い通りでもあるが、中国の近代的な文化産業の発祥地でもある。これも零落した文人たちが遊女たちとともに上海に移り住んだのが起源であるらしい。

*1:福州路の南の広東路を五馬路と呼ぶことはなかったようだ。

2つの料理(メモ)

半島 (文春文庫)

半島 (文春文庫)

松浦寿輝の小説『半島』から。
「島」のヴェトナム料理屋にて。


運ばれてきた料理は仕込みも味付けもいちいち手が込んだもので、迫村はどの皿にも堪能しつつ、バンコクで一、二度行ったことのある本式の高級ヴェトナム料理屋に劣らない味だと思った。コーチシナからタイ、マレーにかけての料理はどの文化圏でも長い歳月のうちにそれぞれ独自の洗練を極めていて、あの香菜の味が我慢できないという日本人が多いが、スパイスが味蕾にもたらす官能の饗宴に関するかぎり日本人の舌は良く言えば禁欲的、悪く言えば貧弱で鈍感にすぎるのではないかというのが年来の迫村の疑問だった。日本人が子どもの頃から親しんでいるのは要するに醤油出汁の味であり、素材の自然の風味を引き立てると称するこの出汁味の無限のニュアンスの開発がこの国の食文化の伝統の中身なのだが、それにしても何とも狭い音域での微妙な差異に拘泥してきたのものではないか。そこにはほそみだの、わび、さび、しをりだのといった貧困の美学の洗練にも通じるものがあり、それはそれでなかなか大したものとはいえ、様々な香草や香辛料の喚起する豪奢な色彩感が衝突し合い、互いを増幅し合い、強調し合い、かと思うと互いを宥めすかし、和らげる、そんな味覚の交響楽を何とはなしに下品と蔑むような高踏趣味が、この国のほそみの美学の限界なのではないか。そりゃあ枯山水水墨画も大したものだ。大したものだが、だからと言って派手な原色のぶつかり合いが感覚を官能の眩暈に巻きこんでゆく、そんな熱っぽい体験に対して自分を鎖してしまうのはつまらぬ夜郎自大ではないか。(pp.33-34)
取り敢えず、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091203/1259779839にリンクして。


ところで、mixi Xmasの「靴下」をまだ飾っていない人は至急飾って下さい。「ベル」を鳴らせません。

「デンシンボウ」?

『朝日』の記事;


「デンシンボウ」知らぬは裁判官だけ 法廷で問いただす

2009年12月11日0時56分



 岐阜地裁裁判員裁判で9日、男性裁判官(29)が、被告が使った「デンシンボウ」という方言が理解できずに、問いただす場面があった。判決後の記者会見に応じた裁判員2人は「もちろん知っている。転勤に次ぐ転勤で知らなかったんでしょう。こちらの方言ですから」と裁判官を気遣った。司法大観によると、裁判官は九州出身。

 「デンシンボウ(電信棒)を殴った」。被告の男(27)は、裁判官からストレス解消の手段を問われ、こう答えた。

 「何て言ってるんですか。もっと大きい声で」と、けげんな顔を見せる裁判官。

 「電信棒」。被告が繰り返し答えると、裁判官は大声で「電柱のこと?」と念押し。

 傍聴席からは「なんで分からないんだろう」と、ひそひそ話す声が聞こえた。

 岐阜大の山田敏弘准教授(日本語学)によると、「電信棒」は東海・関西地方などで使われている方言だという。(贄川俊)
http://www.asahi.com/national/update/1210/NGY200912100006.html

俺も知らなかった。サンリンボウの親戚かと思った。「電信棒」が「電柱」のことだとすると*1、「裁判官」もわかっていたんじゃないか。関東ではデンシンバシラ(電信柱)と言っていた筈。だとしても、今度は、「デンシンボウ(電信棒)を殴」るなんてできるのかよと思った。電柱を引っこ抜いて殴るなんて、何たる怪力、何たる巨人!*2

*1:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3380081.html

*2:「デンシンボウ(電信棒)」で「殴った」と思い込んでいたが、よく見たら「デンシンボウ(電信棒)を殴った」だった。恥&汗

72年ぶりの孫中山

儲静偉「孫中山銅像昨在滬重新建成」『東方早報』2009年12月9日


12月8日、上海体育学院構内に孫中山銅像が完成した。この地に孫中山銅像が建つのは72年ぶり。高さ3.2米、花崗岩の台座は高さ3.6米。
「上海特別市政府」は孫中山が構想したとされる「大上海計劃」に基づき、1929年に上海の江湾地区に新たな上海市の行政センターの建設を決定した。1933年までには、市庁舎、図書館、博物館などの建築物が相継いで完成し、孫中山銅像も市庁舎完成と同時に落成した。しかし、江小鶼作のこの銅像は、1937年の淞滬会戦(第二次上海事変*1において、日本軍によって破壊された。


See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090603/1243993867

大蒜・唐辛子・八角

承前*1

鄹娟、崔世吉「大蒜之後是乾辣椒 甲流日益成為食品漲価借口」『東方早報』2009年12月9日


最近、上海では大蒜、唐辛子、八角の価格が上昇している。大蒜の値上がりは落ちついたものの、数か月前は1斤10元だった唐辛子が13元、1斤7元だった八角が15元になっている。この背後には、これらのものが「甲流」、つまりH1N1インフルエンザに効くと業者側が煽っていることがあるという。
八角について調べてみると、以下のような『日刊ゲンダイ』の記事あり;


【話題の焦点】
2009年5月12日 掲載
八角新型インフル予防に効くって本当?

タミフル需要で主原料が価格高騰

 中国の陳竺衛生大臣の発言が注目されている。「豚肉の調理に八角を用いれば、新型インフルエンザの予防に役立つ」と語ったというのだ。
 新型インフルの感染拡大で、WHO(世界保健機関)は、世界72カ国に向けて、240万人分のタミフルを無償供与することを決めた。タミフル製造元のロシュ社(スイス)は、WHOに約500万人分のタミフルを提供。さらに、世界各国から約2億人分の発注があったという。そのため、タミフルの主原料となる「八角」が品薄状態になり、価格が高騰。陳大臣の発言も騒動に拍車をかけ、卸売価格は約30%も上昇した。
 八角は、中華やインド料理に使われる香辛料の一種。中国原産の常緑高木である「トウシキミ」の果実を乾燥させたものだ。日本でも、スーパーの香辛料や中華食材のコーナーで手に入るが、本当に効果があるのか?
タミフルは、八角から抽出されるシキミ酸が主原料ですが、10回程度の化学反応を経て作られます。シキミ酸とタミフルの化学式はまったくの別物で、八角そのものには、予防効果は期待できないと聞いています」(タミフルの日本での製造輸入販売元・中外製薬
 東邦大学医療センター大森病院東洋医学科の三浦於菟教授もこう言う。
八角は、漢方薬としても用いられていますが、知られる効能は、血の巡りや消化を良くすること。八角を飲用しても、新型インフルエンザには効きません。生薬配合の風邪薬にも漢方薬は使われていますが、桂皮や葛根が一般的で、八角はあまり用いられませんね」
 迷信の類か――。
http://gendai.net/?m=view&g=wadai&c=050&no=19577

インフルエンザに効くとされている食べ物は国によって違うようで、モンゴルでは馬肉、印度ではやっぱりカレーが効くといわれているらしい。

真冬の恩寵など

承前*1

Midwinter Graces

Midwinter Graces

Tori Amos姐さんのクリスマス・アルバムMidwinter Gracesの封を開けて、聴いてみる。
Tori Amosのクリスマス・アルバム――これは先ず(牧師の娘である)Tori Amosと基督教文化との和解という意味で興味深い。
これまでずっと、Tori Amosの曲は、勿論それらが美しい良質な楽曲であるということはいうまでもないのだが、どこか重くて引っかかるものを感じて、〈聴きづらい〉なと思っていたのだ。以前も「トーリ・エイモス姐さんの歌はこちらの精神的なテンションが充分でないときに聴くのを躊躇わせるものがある」と書いたことがある*2。しかし、このアルバムでは、勿論歌われているのがオリジナルではなく聖歌だということはあるのだが、そのような重くて引っかかるものがなく、彼女の歌はひたすら美しく、力強いといっていい。
あれからもう20年。周知のように、1989年、彼女は突然某ファンに拉致され、ナイフを突きつけられてレイプされてしまうという事件に遭遇した。それ以降、彼女は曲を作り、ピアノを弾き、歌うことによって、その事件のトラウマと闘い、自らを癒してきたといってもいいのだった。
See

Tori Amos' Rape Survivor Story” http://www.healthyplace.com/abuse/escaping-hades/how-tori-amos-survived-rape/menu-id-818/
Tori Amos' Story of Rape & Healing” http://www.aswaterspassingby.org/toriamos.html
Tori Amos and the Question Of Rape” http://www.thedent.com/rape.html


また、Midwinter Gracesのレヴュー(『インディペンデント』);


Andy Gill “Album: Tori Amos, Midwinter Graces (Island)” http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/reviews/album-tori-amos-midwinter-graces-island-1837836.html

かみなり?

http://www.zaitokukai.com/modules/news/article.php?storyid=312
http://d.hatena.ne.jp/nessko/20091210/p1


東アジア反日武装戦線「雷」」について、neskoさんは「「日本刀でメッタ切り」という一節に、ウヨクな香りを感じた」と言っている。俺は「ウヨクな香り」というか詩吟的なノリは感じなかったけれど、サヨクな「香り」も感じなかった。先ず第一に帝国主義だの排外主義だの民間反革命だのといった左翼方言が使われていない。だからよくわからない。最悪〈自作自演〉だということになったとしても、在ちゃんだったら誰も驚かないのでは?
それから、「日本刀でメッタ切り」という文言から想像できるのは、剣に関して、素人若しくは腕が未熟だということだ。達人だったら「メッタ切り」にせず、一刀のもとに斬り捨てる(そうですよね、森田さん*1?)。 
「雷」ということで、パンタ(中村治雄)の「マーラーズ・パーラー」を思い出しちゃったじゃないですか。


東京タワーに裏切られ
桜田門に蹴とばされ
雷門にからまれて
そそくさ逃げ出したAICK


有楽町からモラリスト
ポケット瓶から夢を出し
にわか気取りのフェミニスト
ピノキオ目当てのテロリスト
Cited in http://blog.goo.ne.jp/sinoue0212/e/8f5453b7fc2c940e14f577118ceb1e4b

この方、「マーラーズ・パーラー」の歌詞を全て暗記されて、記憶に頼って歌詞を書き出しているようなのだが、リフの

マーラーズ・パーラー だからロック
マーラーズ・パーラー だからジュース
パインカフェB ワインの香り
アインシュタインに パインの調べ
マルコムX コインのおくり物
の、「カフェB」という部分は、俺の記憶によれば、また韻の関係から、カフェインとすべきなんじゃないかと思うのだが、如何?