「素朴」と「自然」

鈴木崇志『フッサール入門』*1によれば、「流れに「身を委ねて」」「半ば自動的に経験は進行していく」。日常的に「私たちはみずからの生を織りなす経験を、ごく当然のこととして素朴に生き抜いている」。「素朴」というのは「まだ批判的な検討を受けていない」ということを意味している。そうした「素朴な生から一旦距離をとること」から「哲学」は開始される(p.49)。


ただし、素朴であるということは決して悪いことではない。思考にとってそこから一時的に離れることができたとしても、最終的に立ち戻るべきはやはりこの素朴な生なのである。
では、素朴な経験において、私たちは何を無批判に受け入れているのだろうか。端的に言えば、それは、世界が存在するということだろう。私たちが経験しようがしまいと、世界やそこに属するさまざまなものは、とにかく存在している。だからこそ私たちは、それらのものについて経験することができるのである。(p.50)
「ひとまずフッサールは、このような信念のもとで営まれる素朴な経験のことを「自然的経験」と呼んでいる」(ibid.)。