鈴木崇志『フッサール入門』*1から。
空想において何かが現れるのは、私の能動的な働きによるところが大きい。空想において何がどんなふうに現れるかは、まさに私次第だからだ。これに対して経験における現れは、私の思いのままに生じるわけではない。
たしかに私は、目を凝らしたり耳を澄ませたりすることによって、自分のほうから経験の成立に能動的に寄与することもできる。しかし、そこで何を見聞きするかは私が自由に選べるものではない。経験においては何かが否応なく降りかかってくるのであって、そのかぎりで私は受動的にそれに巻き込まれるとも言える。
それゆえ経験は、私にとっては完全に能動的とも受動的とも言いがたい、複雑な力関係のなかで生じている。「出会い」という言葉はそのような微妙なニュアンスを表すのに便利なので、これからも火うように応じて使っていきたい。
(略)空想は、その融通無碍なはたらきをつうじて、私の生を私の思い通りに膨らますことができる。そのような自由度の高さは、経験には無いものだ。しかしその代わりに、経験は、この世界に現実に存在しているものが何であるかを私に否応なく気づかせる力をもっている。そのような気づきは、ときに私の予想していなかったような仕方で起きることもある。(pp.43-44)
さて、〈夢(dream)〉は「空想」とは現象学的に全く異質なのだった。
(前略)経験は、この世界のなかに何が現実に存在するかを明らかにすることによって、世界と私を結びつける。そのような経験の仲介のおかげで、私は世界に関する知識を得ることができる。リンゴの花についての知識を得るためには、自分でそれを経験するか、あるいは他の人の経験を頼りにするしかない。いずれにせよ、私たちが生きているこの世界について何かを知るためには、経験が必要なのだ。(p.45)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/03/12/192339 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/05/15/115349 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/05/20/102344 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/11/08/131711 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/11/17/215652 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/11/21/230810
