熊倉功夫『後水尾天皇』*1から。慶長17年(1612年)に起こった大鳥逸兵衛(逸平)*2 事件について。「かぶき者」の代表として。
(前略)ことは旗本柴山権左衛門が自分の小姓を故あって*3殺したことにはじまる。この柴山の処断を見た、かの小姓の同輩が、にわかに刀を抜いて主君たる柴山に切りかかり、殺害し、逐電してしまったのである。主殺しという、封建社会にあって、もっとも忌むべき大罪である。ことのなりゆきを重視した幕府は、手をつくして犯人の小姓を捕え、調べると、驚くべき事実が明らかになった。この小姓たちは徒党を組み、たとえ主君であろうと、理不尽のことがあったら、互いに復讐することを約してたのである。さらに拷問を加えて党類を白状させてみれば、これがいわゆるかぶき者の一党で。つぎつぎと七十余名が逮捕され、五、六十人が逃亡するという空前の事態となった(『駿府記』)。
幕府がことを重く見たのは、一つに彼らかぶき者の論理が、封建的な主従関係にまっこうから反し、一党の盟約を最優先させる、言ってみれば秘密結社であったこと。第二に、かぶき者が、幕府の直属である江戸の旗本のなかから大量にあらわれたことであった。
幕府の追及によって、かぶき者が大量に捕縛され、その頭領が大鳥逸兵衛という牢人であることがわかった。その党類は大鳥をはじめ大風嵐之介、大橋摺之介、風吹散右衛門、天狗魔右衛門などの異名を称する者に率いられ、全国に三千人以上の仲間がいたという。捕えられた大鳥逸兵衛は、姿は仁王に似てたくましく、司直のいかなる拷問によっても、その党類の名は白状しなかった。業をにやした役人が、駿河問*4といわれる新手の拷問で逸兵衛を苦しめると、ついに息はてたようにみえ、拷問の手を緩めて白状をすすめると、逸兵衛は紙と筆を持ってくるように、という。やがて逸兵衛が党類の名を書き立てるものを見れば、なんと、それはすべて諸国の大名の名であった。
大鳥逸兵衛はかつて幕臣の小者であり、のちに牢人としてかぶき者一党の領袖となった。戦国の動乱のなかで、主家の敗戦によってそのたびにはきだされる厖大な牢人群こそ、かぶき者を生みだす温床であった。彼らは一様に下剋上を望み、それゆえにまた幕藩体制の秩序が着々と整えらえてゆくことに強いいらだちを感じていたにちがいない。しかし、「かぶき」という風俗が一つの時代相となったとき、もはやかぶき者は社会のあらゆる階層からあらわれてくる。(後略)(pp.21-23)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/12/17/202404 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/12/24/171947 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/12/27/103817
*2:See eg.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E9%80%B8%E5%B9%B3
*3:何の故?
*4:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%95%8F%E3%81%84