かたむく

熊倉功夫後水尾天皇*1から。


一方に、豊臣秀吉から徳川家康へと主役こそかわれ、政策としては一貫して下剋上の根をたちきるための政策がとられ秩序安定の道が確実にたどられ、他方では、戦乱のなかに下剋上実現の夢をみようとする若者たちがひしめく、という状況が、関ヶ原以後の慶長という時代相であった。下剋上が終焉し、”成りあがる”可能性を現実の社会のなかで断ち切られたとき、社会変動の論理であった下剋上は風俗化する。身分秩序の整備の進行に、あたかも背を向けるように、ことさら無秩序なアンバランスを好み、異風異体を誇示する風尚があらわれる。それは、新しい権力によって否定された下剋上の運動を、現実のわずか残された隙間である”風俗”のなかに実現しようとする若者たちの、きわどい抵抗の姿であったといえよう。
アンバランスを好む美意識とは、まさに”傾奇*2”(傾いた)精神であった。まともでない、ことさらに”異”であって、他の秩序化された世界と自らを峻別しようとする人々を”かぶき者”と世の人々は呼んだ。彼らの異風異体とは、長くした鬢髪、異様な紋所の衣服、身のたけほどの長太刀、長ぎせるなどによって特徴づけられる(略)たとえば、慶長九年(一六〇四)、豊臣秀吉七回忌にあたってくりひろげられた豊国大明神臨時祭礼を描いた屏風には。多分やくたいもないことから争いおこしたでであろうかぶき者の喧嘩が見える。ところが、このかぶき者の一人がもつ長太刀の朱鞘に興味深い文言が書きつけてあった。

いきすぎたりや、廿三、八まん*3、ひけはとるまい。
戦国の時代であれば、実力本位で下剋上のチャンスをつかむことも可能であった。が、もはやその夢も断たれ、何の存念あって生きながらえるのか。二十三歳にしてもはや生き過ぎてしまった。八幡の神に誓って、他人にひけをとるようなことはあってはならぬ、という文言は下剋上の時代に遅れてきた若者たちの痛切な心情の表現であった。時代の閉塞状況のなかで、目的を失ないながらも生きつづける自己嫌悪と、下剋上にかわる生きがいとしての”男伊達”に命をかけようとするかぶき者たちの精神を、ここに見ることができるだろう。(pp.19-21)