コンダ


習志野市大久保の「誉田八幡神社」について;


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「誉田八幡」と聞くと、大阪府羽曳野市の誉田八幡宮を思い出すのですが、Wikipediaを読みますと、同八幡宮から勧請されたのが始まりの神社なのですね。

習志野市の「誉田八幡神社」は、羽曳野の「誉田八幡宮」の末社ということになるわけですが、この場合、「誉田」はホンダではなくコンダと念みますが、何故「コンダ」なのか、以前調べようとしたことがありますが、結局わかりませんでした。
伝えによると、豊臣遺臣の市角頼母が大久保新田を開いたということで、市角家は大久保の草分けの家であるわけですが、彼が新田開発をしたのは大坂夏の陣からかなり経った1670年代。徳川将軍で言えば、4代徳川家綱の晩年、そろそろ5代徳川綱吉になろうかという頃。以前は落ち武者が開拓したんだと思っていたのですが*1、よく考えてみれば、大坂の陣の頃は市角頼母はまだ生まれていないか、生まれていたとしても幼児だった筈ですね。下総の小牧原の東端に定着するまで、いったい何処で何をやっていたのか? 大久保に定着する前に現在の船橋市夏見に居たことがあるようですが、現地にどんな史跡等が残っているのかは知りません。今度、暇を見つけて、東武野田線に乗って、行ってみようと思っています。
ところで、習志野の言葉には関西弁の影響は全然ありません。習志野の原住民の言葉は、基本的には典型的な千葉(下総)のダッペ言葉。市角頼母、大久保に辿り着く前に関西弁を忘れてしまったのか? 江戸の佃島*2の住人は幕末に至るまで大阪弁を話していたという話を何処かで聞いたことはありますが。