2つの川など

椎名誠*1「カルシウムとカメさん」『波』(新潮社)649、pp.20-23、2024


『こんな友だちがいた』という連載の第1回。
先ず、「幕張」という地名について;


千葉の幕張は、東京湾の海べりにある小さな町だ。戦国合戦の頃、ある軍勢が海岸べりを南下したおりにこの地に野営し、陣幕を張り、それが「幕を張る――幕張」の地名の由来になったという。さらにイクサに使う馬を徴用し、軍勢を補強した。「馬を加えた」ので「馬加」となった。
あるとき旅人がやってきてそれをそのまま「バカ」と読み「おーい、バカはこのへんかい?」とそこらの村人に聞いた。
「バカはおめーだべ」
村人は答えたらしい。
たぶん後の人の、つくり話だろう。ぼくは五歳のときに越してきた。のどかな風景におどろいた。そして「バカ」という名の町で十九歳まで過ごした。(p.20)
この地名の起源話が正しいのかどうかはわからない。

町には二つの川が流れていた。東の端の花見川*2印旛沼から海まで流れていた。後年、海岸が幕張メッセに大変身するときには印旛沼干拓工事のときに出た土砂を埋め立てに使った。その自然の放水路になっていたのだ。
花見川は現在は近代化を果たした幕張の町の東側を流れる景観のいい立派な川になっている。
東の「花見川」に対して浜田川*3は「夕日川」と呼ばれていた。それは町の西を流れていて東の花見川と好対照をなしてバランスがよかった。でもこの夕日川というのはあとで気のきいた奴がつけたらしいチャンチャラおかしい気取った名前の気配があって、あまり一般的には言われていなかった。
町の人はもっぱら「シビンの川」と呼んでいた。あの病人などが使う尿採取の容器と同じ発音をする。じっさいそのことを言っているのかどうかはわからなかった。(p.23)
幕張の海岸についての記述も興味深いので、引き写しておく;

海はぼくの家から歩いて五、六分ぐらいのところにあったから、ぼくはほとんど毎日見にいった。
広い砂の海岸には流木やゴミなどがたくさん打ち寄せられ、乱雑ながらそれはもうひとつの海らしいにぎわいになっていた。物置ほどの大きさの漁師小屋と呼ばれる粗末な小屋があちこちに点在していた。そこらにいくらでもころがっている流木などで漁師らが適当に作った掘っ立て小屋である。その中には予備の漁師道具や仮眠をとるときの寝具や着替えのための服などが雑多に放り込まれている。暑いときやちょっと疲れたようなときにそこで一休みするのに使われていたのだった。(p.21)