降りたことはない

A.Ikeguchi*1「Back to the Forest」https://bythebeachs.hatenablog.com/entry/2023/04/09/193439


これを読んで、大佐倉に行ってみたいと思った。私は京成電車で(恐らく)何百回と大佐倉駅*2を通り過ぎているが、降りたことはない。でも、「大佐倉」という何だかエラそうな地名は気になっていた。
大佐倉は江戸時代から大佐倉だった。


(前略)惣五郎伝説はもともとは一揆や越訴とは結びつけられていなかった。比較的早い時期の記録の一つとして馬場文耕『当時珍説要秘録』(1756)に「堀田相模守領知佐倉宗吾の宮建立の事」がある。それによると「大佐倉町の庄屋大友宗吾といふ者」が領主堀田上総介(上野介正信)の家臣と争論になり、「宗吾不届きなり」として、一族とともに将門山で磔の刑に処せられた。その祟りで堀田上総介は乱心して領地没収となった。その後、上総介の遠戚にあたる堀田相模守(正亮)が佐倉の領主に任ぜられたとき、宗吾の霊を弔うために立派な社を建てた、「さもおそろしき事也」、とこれだけの話である(引用は『叢書江戸文庫12馬場文耕集』国書刊行会より)。
(広坂朋信「グノーシス的日本」http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/gendaisisou-s3.html Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/11/122606
佐倉市大佐倉と酒々井町本佐倉に跨る将門山には、戦国時代に千葉氏が築いた本佐倉城*3があった。江戸時代に進駐軍として佐倉にやってきた土井家や堀田家にとっては、この大佐倉一帯というのは戦国或いはそれ以前に遡るかも知れない旧時代を象徴するような場所だったのだ。佐倉惣五郎伝説もそのようなトポスにおいて生成されたことになる。