神話と伝説など

「古代人は神話を信じたか」http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120125/1327506442


広坂さん曰く、


古代ギリシアの神話・伝説は、ソクラテスプラトンが活躍した古代ギリシアから見れば時間的にも空間的にも遠く離れた異教の地に生まれ育った私などはついつい「ギリシア神話」として一括りにしてしまいがちだが、古代ギリシア人、少なくともソクラテスプラトンたちにはその内容によって重要度に差があったのではないか。北風の神ボレアスがオレイテュイアという娘をさらっていったという伝説やヒポケンタウロス、キマイラ、ゴルゴ、ベガソスといった「妖怪めいたやからども」や「怪物たち」は、合理的解釈もできるがいちいちつきあうほどのものでもない。対するに、デルポイやドドネで巫女の口を借りて神託を下すアポロンやゼウスへの信仰はそれらとは別のものである、というような。
これについて、

nagaichi 古代
古代人もそれぞれの見識に従って神話を信じたり疑ったりしたはず。司馬遷は『史記』を五帝から書き起こし、隧人・伏羲・女媧を扱わなかった。龍や麒麟を信じたかもしれないが、鯤や鵬はたぶん信じていない。 2012/01/26
http://b.hatena.ne.jp/nagaichi/20120126#bookmark-77662773
というコメントあり。
社会内に流通する言説については、どの社会でも、その信憑性の度合に基づいて、民話(昔話)、伝説、神話という、かなり厳密に区別された層が存在するのではないか*1。民話(昔話)については誰もが事実でないことを知っている。伝説は〈事実〉とされているが故に信じられてている(反証が見つかれば信じられない)。神話については、真偽を超えているというか、真偽を問うこと自体が不敬であるとされる(Cf. 大林太良『神話学入門』)。
神話学入門 (中公新書 96)

神話学入門 (中公新書 96)

また曰く、

ここで『パイドロス』においてソクラテスプラトン)が論じている予言術と占い術の区別についてよく考えてみたい。この区別は単なる違いの指摘ではなく、予言術を占い術の上位においており、その線引きの基準は「神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」というものである。

ここで占い術といわれているものは「正気の分別」により「鳥の様子や、そのほかのしるし」など自然界の示す徴候を読みとり、思考の働きによって予測を得ることだから、現代の天気予報と単に精度が違うだけでその仕組みはなんら変わるところがない。道路が渋滞しそうかどうかとか、この会社の株価は上がるか下がるかとか、今度の選挙ではどの候補が当選しそうか、という私たちが日常おこなっている予想も、ここでいう占い術なのである。これは大森荘蔵の言う略画的世界観と密画的世界観ということに通じるものだと思う(『知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)』)。

他方、予言術については「神から授けられる狂気」、すなわち神託によって吉凶を判断するものでシャーマニズムと言い換えてもよいだろう。プラトンシャーマニズムを肯定しているのである。それも、訳者藤沢令夫氏による訳注によれば、デルポイもトドネも古代ギリシアにおいて権威ある神託の社であったそうだから、国家のあり方と結びついた正統的な宗教である。

「予言術」に対するソクラテスの態度というのは何処かしら王船山(王夫之)の〈易〉に対する態度を想起させるところがある(Cf.高田淳『易のはなし』)。君子は思惟の果てに「大疑」という一種の疎外状態に陥ったとき、「大疑」を克服して世界と和解をはたすために易を立てるが、その際には卦への絶対的服従が当然要請される*2。それはさて措いて、社会学(主義)的に考えてみる。詳しくはデュルケームの『宗教生活の原初形態』やモースの「呪術の一般理論の素描」を検討しなければならないが、その余裕はないので掻い摘んでいうと、上にいう「占い術」から生ずるのは取引関係であり、そこからクライアントは生まれても〈信者〉は生まれない。それに対して、「予言術」において生成される人間類型は〈信者〉であろう。ところで、宗教(特に新宗教)の教勢拡大について、病気直しのような現世利益が強調されることがままある。しかしこの説明はクライアントと〈信者〉の間、或いはたんなる専門家と教祖の間の断絶を無視しているとえいるだろう。病気直しの場合、病気が治れば用は済んだのでクライアントは去っていくだろうし、直らなければ失望して去っていく。何れにせよ、そこでは宗教的な共同性は生成されないのだ。病気直しといった実用的な目的に還元されない何かがあるからこそ、用が済んだ後も、信者或いは弟子という関係が続くわけだ。そして、このたんなるクライアントか信者かという対立は、ソフィストソクラテスの対立とも関係あるのではないか。ソフィストに信者ができるわけはないが、ソクラテスの場合は若者たちとの間に〈教祖―信者〉的な人間関係を構築した。ソクラテスを殺したポリス(アテネ)、その良識的な成員たちはそこに(宗教としての)ポリスに対する潜在的な危険を感じ取ったのではないか(Cf. 保坂幸博ソクラテスはなぜ裁かれたか』)。 
パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

易のはなし (岩波新書)

易のはなし (岩波新書)

宗教生活の原初形態〈下〉 (岩波文庫)

宗教生活の原初形態〈下〉 (岩波文庫)

宗教生活の原初形態〈上〉 (岩波文庫)

宗教生活の原初形態〈上〉 (岩波文庫)

社会学と人類学 (1)

社会学と人類学 (1)

さて、「信じる」ということについて以前無駄口を叩いたことがあったが*3、心理状態ではなく社会的事実としての「信じる」はどのように存立するのだろうか。それは会話の連鎖、〈信じていますか〉という質問に対する答において「信じる」という事実が構成されるということだろう。つまり、〈信じていますか〉という問いは「信じる」という答えに先立っているわけだ。だから「古代人は神話を信じたか」ということも、そもそもそのような会話(問い―答え)の連鎖においてしか決定され得ないのではないか。ということは、或る宗教的なコアについて〈信じる/信じない〉ということを殆ど行わない(或いは全く行わない)宗教伝統においては〈信じる/信じない〉ということが意味をなさない可能性がある。例えば、日本の神道において、人間と神の間で問題になるのは敬/不敬であり〈信じる/信じない〉ではない。また、〈信じる/信じない〉に拘る宗教というのは宗教一般からすればやはり特殊なのではないかということも考えなければいけない。

*1:これについては、広坂さんにコメントするまでとっておこうと思ったのだが、一足早く言及してしまった。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120202/1328118216

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080825/1219604165

*3:Eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169521302 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070822/1187751553