伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』

八月の路上に捨てる (文春文庫)

八月の路上に捨てる (文春文庫)

先日読了した*1伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』について;


八月の路上に捨てる
貝から見る風景
安定期つれづれ


解説(津村記久子

伊藤たかみの『ロスト・ストーリー』を昨年読んだのだが、特に後半(文学青年というよりは寧ろ演劇青年が考えそうな)ベタな仕掛けが登場し、小説としては破綻しているなと思った*2。それに対して、芥川賞を受賞した表題作を含むこの本に収められた短篇はどれもそのようなベタな仕掛けもなく、長篇小説(novel)と短篇小説(short story)という違いはともかくとして、是非とも書き写したいという欲望をそそる描写・記述はあまりないものの、よく書かれた小説だなと思った。
ロスト・ストーリー (河出文庫)

ロスト・ストーリー (河出文庫)

「八月の路上に捨てる」の30歳の主人公「敦」は自動販売機にドリンクを補充する会社にフリーターとして勤務している。この短篇で「敦」は、「八月最後の日」に「正社員」でシングル・マザーである同僚の「水城さん」と一緒にドリンクを補充するために東京のあちこちを巡る。その過程で、「敦」は「明日」離婚することになっている妻(「知恵子」)との馴れ初めから結婚、そして関係が破綻して離婚に至るまでの経緯を回想し、「水城さん」に語る。 津村記久子さんが記しているように(p.171)、自動販売機のドリンクっていうのはこのようにして補充されているのかという知識を得たというだけで得した気分にはなれる。勿論そういうのは小説の読み方として邪道ではあるけど。この小説はよく書けているというか、書けすぎているという感じもする。例えば、「敦」と「水城さん」のペアは、


男/女
フリーター/正社員
子どもがいない/子持ち
明日以降も仕事を続ける/明日以降仕事を離れる(転勤する)
これから離婚する/これから再婚する
自分のプライヴァシーをよく語る/あまり語らない


というふうにかなりクリアな二項対立を構成してしまっている。作りすぎなんじゃないかと思う人もいるだろう。
巧いと思ったのは「敦」と「知恵子」の物語の組み込み方である。


(前略)自分たちは二十代も半ばを過ぎている。夢なんて大久保の排水溝に落っことした。新宿の路上で汗と一緒に流してしまった。それでもその先には、案外、まっとうな幸せがあるような気もしている。(p.40)
「敦」が抱いたこの感想は「敦」と「知恵子」の物語にとっては核になっているのだと思う。「夢」。「敦」は映画の脚本家になるという「夢」のためにフリーターになったのだった。また、「知恵子」は編集者になって「夢」が一旦は実現したものの、人間関係のトラブルから出版社をやめてしまう。「知恵子」の「夢」が挫折して、彼女が家に引き籠ることから、ふたりの関係は破綻へと向かって進み始める。発想が通俗的で且つ筆力のある作家なら、この「夢」を追い駆けるカップルの馴れ初めから関係の破綻に至る物語を前面に出すのではないだろうか。それだったら、作家の筆力に応じて、いくらでも感傷的に或いは情熱的に描写を重ねることができるだろうし、また左翼的或いは右翼的な社会批判をふんだんに塗すこともやりやすい。しかし、その場合、読者に残されるのは、陳腐な社会批判、また大人になるっているのはこういうことなんだというこれまた陳腐なご教訓しかないだろう。どちらも文学的経験ではありえない。著者は、「敦」と「知恵子」の物語を、「敦」が「水城さん」にトラックの運転台で語った内容というふうに間接化することによって、通俗化を回避したのだと思った。
「貝から見る風景」で、フリー・ライターである主人公の「淳一」はいつも(多分)図書館司書である妻の「鮎子」とスーパーで待ち合わせをする。妻を待ちながら、「淳一」はスーパーの掲示板に貼られた客のクレームと店側の回答を読んでいる。或るスナック菓子を巡る或る母親のクレームに注目して、その母親に関して色々と妄想を始める。さらに、「淳一」の有力なクライアントである編集プロダクションが夜逃げ同然に倒産したという電話がライター仲間から入る。夜になって、「淳一」は「鮎子」とベッドで並んで寝ながら、一日の出来事を話して聞かす。スーパーでの待ち合わせというルーティンと編集プロダクションという藪から棒でしかも深刻な出来事(非日常)という対比。その揺らぎは「淳一」に不安を喚起するとともに、夫婦である(ありつづけている)ということのありがたさを覚らせる――「明日、鮎子はまた会えるかしらん。俺は一人にならないかしらん」(p.116)。また、この小説は〈物語〉が生まれる端緒に言及したメタ小説であるとも言える。
「安定期つれづれ」は前2作と異なり、初老の男が主人公となっている。「英男」は妊娠した娘(「真子」)が実家に帰ってきたのを契機に禁煙を決意する。妻、娘、(「女性は離婚後半年をすぎないと再婚できないという法律のせい」で「まだ入籍が済んでいな」い(p.151)娘の夫(「晃一」)との微妙な齟齬が起きつつも、〈家族〉は続いていくし、「英男」の禁煙も進捗していく。最終的に「英男」に喚起されるのは煙草が吸えないという「寂しさ」から隠喩的に拡張された一般的な「寂しさ」、その「寂しさ」を生の一部として受け容れていこうという諦念である。ここでも作者は、「英男」の感情(感傷)を彼が書き綴る「ブログ」の引用という仕方で間接化・相対化している。