小さな「迷路」

内田洋子『対岸のヴェネツィア*1から抜書き。


初めて訪れると、迷路のような道を前にして町の全容が摑めずにたじろぐが、実のところヴェネツィアは小さな町だ。外周をざっとなら、一日もあれば一周できる。
ところがいったん干潟の縁から内へ入ると、たちまちさまざまな時代のヴェネツィアが現れ、なかなか先へ進めなくなる。名だたる建築物はもちろんのこと、割れた敷石や剥がれ落ちた壁土にまでその寂れぶりに感じ入り、立ち止まっては見入る。どの断片からも物語が漏れ聞こえてくるようで、思わず聞き耳を立てる。
〈順々にもれなく道を伝い、ヴェネツィアをぜひ完歩してみよう〉
それはここに暮らす者の特権であり、また使命のように思った。
朝起きて、歩き、迷う。来た道を引き返すつもりが、脇道へ逸れてしまう。
迷い出すとそこからが、小さな旅の始まりだ。
さらに奥へと入り込み、高い壁に挟まれ、視界が狭まる。聞こえるのは、自分の焦る鼓動と不安げな足音だけだ。携帯電話の電波は届かない。地図を広げても、東西南北がわからない。いま立っている位置さえ不明だ。路地の名前を探して壁ばかり見ているうちに、ますます外れていく。やがて捨て鉢になり、当てずっぽうに角を曲がり、足の向くままに進む。道は次第に細くなり、袋小路に追い詰められたかと思うと、建物の裾に抜け穴が開いている。くぐり抜けると、井戸のある小さな中庭に出たりする。四面を建物に取り囲まれて途方に暮れ天を仰ぐと、歪な形に切り抜かれた冷え冷えした空がある。(「コンサートに誘われて」、pp.39-40)