「撮り鉄」とは

小林拓矢*1「なぜ「撮り鉄」は過熱するのか 相次ぐトラブル、「倫理と精神」はどうあるべき?」https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashitakuya/20210817-00253036


撮り鉄」というのはどうも私が思っていたのとは違う種類の人間(類型)であるらしい。
8月に起こった「江ノ電」事件。「先日も、江ノ電で人気の旧型車・300形305編成が深夜に併用軌道を走っていて、そこに自転車の男性が通りかかり、待ち構えていたカメラを持った人たちの罵声を浴びてトラブルになった」。
結果として画面に闖入してきたおっさんについて、プロの報道写真家である共同通信の原田浩司氏*2は以下のようにコメントしている;


俺もレトロな電車と自転車に乗ったヨーロッパ系のおっさんのコンビネーション/コントラストは面白いと思う。しかし、「撮り鉄」にとってはたんなるノイズであるらしい。

撮り鉄」のいう「いい写真」と、報道を含めたそれ以外のカメラマンの「いい写真」とは、別の価値観で動いているということだ。どちらの考えも、わかる。

 意外なことに、芸術性や独創性よりも、形式性や記録性を重視する写真撮影者の集団が、「撮り鉄」である。鉄道雑誌などがやっているコンテストでも採用されない一方、鉄道雑誌が特集を組む際に記録写真として採用されるような写真を、好んで撮りたがるのである。芸術写真としての鉄道写真は、それはそれで別にあるのだ。

そうなんだ! 
撮り鉄」がトラブルを起こしたというニュースは時々は聞く。鉄道の写真を撮るのが好きな人は鉄道会社の財政にはあまり貢献していない。つまり、鉄道に乗りながら鉄道の写真を撮ることはできないので、汽車には乗らずに主に自動車で移動する、つまり鉄道会社にとって「撮り鉄」はお客様ではない。トラブルの一部はこのことが関係していると思っていた。また、子どもの頃から鉄道の写真集はけっこう読んでいるけれど、それらは風景写真集としても一流というか、車輛(機関車や電車)と線路と人工的・自然的風景とのコンビネーションが面白いものが多かった。
撮り鉄」にとって写真は商品カタログの商品写真を理想としているわけだ。広告写真であれば、効果のためにほかのイメージと組み合わせるということもあるだろうし、実際に生活の中でその商品が使用されている場面を提示しなければならないだろう。さて、最初は「撮り鉄」的写真美学って何か変だなと思ったのだけど、ちょっと考えると、けっこうありがちな美学(趣味)の対立に収まるものなのだった。アイドルの写真集でもエロの写真集でもいいんだけど、その撮影が行われた日常的或いは非日常的な場所(舞台)によって読者の想像力を刺戟したりするということはよく行われといる。南国のリゾートだったり大都会の高層ホテルだったり散らかっている汚部屋的な下宿だったり。そういえば、篠山紀信宮沢りえを撮った『Santa Fe』*3は撮影された場所が本のタイトルになっている。こういう場所性は(主役である)モデルの存在感を意味的に限定し・支えるものだけど、ゲシュタルト転換、地と図の反転によって、一気に前面化する可能性がある。他方で、スタディオや倉庫といった情報量が極端に少ない(或る意味で抽象的ともいえる)場所で撮影されたものを好む人もいるだろう。「撮り鉄」の美意識は後者に近い。