「モテ」とはそういうことか

島本理生*1「「モテ」という現象の深層」『毎日新聞』2021年5月16日


「モテ」というのはこういうことだったのね。


思えば、私が二十代の頃は、モテ、という言葉が市場を支配していた。
女性ファッション誌や書籍の表紙にもその単語が溢れ返り、数人でお酒を飲めば誰かの口から一度は出た。その意味を深く考えることなく、ただ、モテ、は目指すべきゴールであると信じていた。
あるとき、女性の友人がこんなことを言った。
「親しくもないのに物をくれたり、過剰に親切にされたりといった、分かりやすい形で好意を示されるのが好きではない」と。それはまさに、モテ、であったが、理由を聞いて納得した。一見相手は見返りを求めていないようでいて、その実、好意を隠そうとしないので、やはりなんらかの期待はしている。その期待や感情まで受け取ってしまうのが申し訳ないし、負担だという。
鈴木涼美さんは*2『ニッポンのおじさん』で「罪悪感につながる想像力の放棄、もしくは欠如こそがモテの真の姿である」と述べている。
さらに、『ニッポンのおじさん』を巡って;

本書の中で、戦争を他人事のように俯瞰して論を展開する優秀な学生に対して、著者は「人の死を悲劇やノスタルジーではなく、数字で把握できるその『アタマの良さ』はすなわち、死と隣り合わせになったことがない人間、身近な死によって自分自身が変容するという経験がない人間の所業だと私には思える」と指摘する。最近SNS上でも見られる、頭が良いと見なされる振る舞い、に違和感があった私は心救われた思いがした。
さて、

愛情を求める人ほど、自分はそれに値しないという嫌悪や卑下があるように感じる。だけど相手にしてみれば、もらってばかりで受け取ってもらえないのは侘しい。
コミュニケーションの基本が自己否定によって阻まれる生きづらさこそ、言葉を扱う者が向き合うべきテーマに思う。