島本理生「シルエット」と「雨」

シルエット (講談社文庫)

シルエット (講談社文庫)

島本理生の「シルエット」は「雨」から始まる;


何カ月も何カ月も雨が降り続き、もしかしたらこのまま雨の中に閉じ込められるかもしれない。そう予感するような季節の中にいた。もちろん、わたし自身が。日本には四季があるから、そう実際にはずっと雨季の中にいることなんかできない。ましてや東京に住んでいては。わたしは生まれてからずっと東京で育ち、旅行以外で他の土地に行ったことは一度もなかった。だからそんなに長々と雨の降り続く景色は知りはしない。
ただ一切を無視して、わたしの中に雨は降り続いた。そして自分の体内に確実に響く雨音をいつまでも聞いていた。まるでもう一つの鼓動のように。
冠くんに初めて出会ったとき、わたしは彼を霧雨のような人だと思った。春先に降る、やわらかくてどこか暖かいあの雨に似ていると。ただ、そういう雨は終わりの見えないことも多い。いつから降り出して、いつになれば止むのかまったく分からない果てしない雨。そういう雨の特徴を、ただでさえ背の高い体の上に、さらに着ぐるみのようにすっぽりとかぶっているのが冠くんという人だった。
だから、二人の始まりがどこだったのか、正直わたしにはよくわからない。雨というのは降り始めてようやく気付くものだから。窓からこぼれた闇にそっと夜の訪れを知るように、地面に積もっていたはずの雪がいつのまにか溶けてぐしゃぐしゃの泥水となっているのを見て、ふいに春の訪れを知るように。(pp.9-11)
「雨」は「わたし」(の記憶)にとってトラウマ的な何かのように、「わたし」の元カレである「冠くん」との関係で何度か反復される。

しばらく雨の降る日が続いた。ゆううつの中に閉じ込められるような曇り空が広がり、さらに冷たい空気が立ち込めていた。その日、わたしは大学が終わった後のせっちゃんと駅前の大きな本屋で待ち合わせをしていた。なかなか来ない彼を傘を片手に待ちながら新刊のコーナーに目を通していたら、雑誌を買いにきたはじめとばったり出会った。(pp.110-111)。
「せっちゃん」は「わたし」の現在の恋人。「はじめ」は「わたし」の高校の同級生。ここでも、今引用した箇所の後で、「わたし」は「はじめ」と入院した「冠くんのお母さん」について会話する。そして、「わたし」は「せっちゃん」に「せっちゃんを好きな気持ちとはまったくべつの気持ちで、わたしに好きな人がいるかもしれない」(p.116)と、「冠くん」のことを仄めかす。「とりあえず、しばらく考えてみるんだな。その間、オレはあなたとは会わないから」と暫しの別れを告げられ、家まで雨の中無言のまま送ってもらう(p.117)。

数時間だけ、深い大雨の中に閉じ込められたときがあった。二人きりで小さな家の中に。
もう冠くんとうまくいかなくなってだいぶたったころだった。二人でいると沈黙が空いた距離の中に落ちてしまい、それを埋める努力をすることすら億劫に感じるようにんまっていた。
その日、母の出掛けていたわが家でわたしと冠くんはビデオを見ていた。なにを見ていたかは覚えていない。ただ流れていく白黒の画面を追っていた。わたしはソーダ味の棒つきアイスを囓り、窓の外で執拗にわめく蝉の声を聞いていた。冠くんは氷がたっぷり入ったリンゴジュースのコップを口に付けないままからからと鳴らしていた。
どれくらい時間がたっただろう。ふいに蝉の鳴き声が止んだかと思うと、地面を叩きつけるような音が耳に届いた。あわてて窓の外を見ると、おそろしい勢いで雨が降っていた。雷が遙か遠くの空を切るように光った。映画を見ているような気がするぐらい、完璧なはげしさだった。わたしは思わず夢中になって窓ガラスに顔を押し付けた。冠くんも驚いたように窓に近寄って外を見つめた。
「こんなの生まれて初めてかもしれない」
思わずそう漏らしたわたしに彼は無言で同意した。
「すごい、雨がどんどん道に落ちて流れていく」
近所の家の植木が倒れるのが見えた。風もどんどん強くなり、窓を打った。あわてて道を走っていく人影や、軒下に駆け込む子供の姿が見えた。
ふいに、振り返ると冠くんがすぐそばにいることに気付いた。静かな吐息も耳元に届くほどの距離に。わたしはそっとまた窓の外に視線を戻した。
「このまま雨の中に閉じ込められてしまえばいいのに。それで、ずっと二人だけでいられたらいいのに」
言った後に少しだけ、しまったと思った。きっと彼は困った顔をするだろうと思って。
けれど、次の一言にわたしは息が止まりそうになった。
「うん、そうなてしまえばいいのにね」
嘘も何もない声で切実にそう言った冠くんの、わたしは顔を見ることもできないままずっと窓ガラスに顔を押し付けていた。
そして本気で時が止まってしまうことを願った。あと数時間後にはいつものように日常に帰ってしまうことは分かっているのに。後から考えればそれ自体が確実に終わりの近い予感だったのに、それでも聞き分けのない子供みたいに無我夢中で神様に願った。(pp.125-127)
それから、最後近く。「わたし」はすでに「せっちゃん」と撚りを戻し、「冠くん」は「祖父母」と暮らすために、「長野」に引っ越し、「あんなに胸に燻っていた冠くんへの感情はゆっくりと遠ざかる季節のようにじょじょにわたしの中から去っていった」(p.133)。

二年生最後の日が来て、わたしの二年目の高校生活のくぎりがついた。
終業式が終わり、わたしははじめと一緒にホームに立って帰りの電車を待っていた。冬の終わりくらいから彼の身長が急激に伸びたため、わたしは少し彼を見上げたかたちで話をしていた。すると、ゆっくりとしたなにかが空から落ちてきた。あっと思うと同時に銀色の糸みたいな雨がするすると降ってきたのだ。完璧なお天気雨だった。そっと目を細めて空を仰ぐとあいかわらず太陽は宝石のような光をこぼしている。わたしとはじめはしばらくその不思議な光景に見とれた。太陽がはっきりと大きな雲の輪郭を縁取り、銀の滴をきらきらと輝かせていた。(pp.134-135)
そして、「はじめ」は「そういえば冠の引っ越しの日もお天気雨だったよな」(p.135)という。
関連するイメージとしては、「桜」(pp.63-65)、「血」(pp.65-70)、そして「冠の母親」の「涙」(pp.136-137)。また、気候ということでは「雪」が重要な意味を持つか。
ところで、「冠くん」と「わたし」の関係は、

(略)
そう言って、冠くんは麦茶を飲み干した。喉仏に虫でも飼っているかのように、ぐっと喉の皮膚が揺れた。透けるような白だった。不健康ではなく上質と表現できる。不純物のない白。わたしは彼の体の中で喉が最も性的な部分だと思っていた。
ただ、その部分に口づけたことは一度もなかった。喉だけでなく、他の部分にも。付き合い始めてからだいぶ経っていたわたしたちは、肉体的なかかわりを一切持っていなかった。
それは徹底していた。手をつなぐことさえも、例外ではなかった。何度か試みたことはある。けれど結果はいつも同じだった。わたしが彼の手を取ろうと自分の手を伸ばしかけた瞬間、彼はおそろしく自然な動作で自分の手を引っ込めてしまうのだった。(pp.19-20)
というふうに、徹底的に「肉体的なかかわり」が回避されている。それに対して、

せっちゃんのセックスはおそろしく丁寧で、終わるころにはいつも彼の愛情の海に浸されて起き上がることすら困難なわたしがいる。彼は女の足の指の、爪一つ一つまでも宝石か何かのように扱って自分で磨かなければ気がすまないらしく、普段の彼からは想像もつかないほどの慎重さと緻密な作業でわたしの体内に快感を積み上げていく。磨かれていくわたしは、そうやってようやく積み上げたものを壊される一瞬を待ち望んでいる。(p.47)
にも拘わらず、この2人は寡黙さという共通点を持っている;

こちらが饒舌なのに対して、彼はいつでも二、三言しか返事をしなかった。言葉の量よりもタイミングや空気で伝えようとする彼に、わたしも必死で耳を傾けた。その耳を傾ける作業が実際の会話よりも楽しかったといえる。そんなとき、自分の気持ちがたしかに彼に全身全霊で向かっていることを感じていられたし、彼もまた、わたしのそういう心をしっかりと感じ取って、絶妙なタイミングで笑顔を返した。(p.11)
また、

(略)彼[せっちゃん]は言葉で伝えるという努力をあまりしない。けれどその何倍も効果的な方法を知っている。その横顔で両腕で、わたしの呼吸を止めることも吹き返させることもできるのだから。(p.41)
これはたんに「わたし」が無口な男に惹かれているということだけではないだろう。多分、自己を包み込んでしまう雰囲気に対する敏感さという作者の能力の投影なのかも知れない。一緒に収録された「植物たちの呼吸」と「ヨル」というさらに初期の掌編は雰囲気の描写で全体が覆われているといっても過言ではない。この2篇は「筋が稀薄な分、より濃密に実感だけを手渡そうとする意思が感じられる」(p.184)という長嶋有氏の言葉はまさにその通りだと思う。