島本/宇佐見/山本

島本理生*1「ままならぬことを見つめて」『毎日新聞』2020年12月20日


宇佐見りん『推し、燃ゆ』と山本文緒『自転しながら公転する』について。因みに、どちらも読んでいない。
先ず、宇佐見りん『推し、燃ゆ』を巡って;


読み始めてすぐに、この小説の、あらゆる物事に対する解像度の高さに驚かされた。自分のすべてを「推し」に注ぎ込むとはどういうことか。うわべても理屈でもない命のようなものが、言葉として表現されている力量に圧倒された。

本書の冒頭で「推しは命にかかわるからね」という台詞が出てくるが、それはけっして大げさでない。小説でも「推し」が「背骨」と表現されているように、その活動は生きることの中心にとても近いのだ。私はこの小説に、古くから人が受け継いできた信仰の聖なる部分を見たようだった。
山本文緒『自転しながら公転する』を巡って;

(前略)都自身は、恋人の貫一が災害ボランティアへ行っていたと知って、「自分の時間を差し出して面倒を見ることが本当は嫌で仕方がなかった。肉親に対してもそうなのだから、赤の他人に無償で何かすることなど考えたこともない。貫一とくらべると自分は薄情だ」自己嫌悪を覚える。私はこの告白を読んで不思議と救われた想いがした。嫌なことやできないことが大声で言えないのは苦しい。『推し、燃ゆ』にも「どうしてもでないと思う」と問われて「どうしてできないなんて、あたしのほうが聞きたい」と自問する場面がある。故人から形成された社会が、社会のために個人を矯正しようとするのだ。
その一方で強いる側もまた満身創痍だと『自転しながら公転する』の都の母親・桃枝は気付く。「かけられる圧力ばかり気にしていたが、自分がかけていた圧力には無自覚だった」。その公平な俯瞰はまさに、自転しながら公転する、というタイトルそのものだった。