名言流行り

鈴木涼美*1「名言引用ドヤ顔おじさんの蛮勇」https://nikkan-spa.jp/1239788


2016年11月に発表された文章。


しかし、近年、大きめの書店などで名言集の類の存在感が嫌に増している気がする。本を読んで楽しいとか、伝記が面白いとかいうことってまだわかるんですけど、名言集好きな人、多くは男だけど、のメンタリティはよくわからない。でも確かにいる。社員のやる気を喚起するためのメールの末尾に必ず誰かの引用を入れる人。引用は私も好きだけれど、そもそも好きな一文とかって文脈あってのフレーズだったりするので、名言集から一文ひっぱってきてメールにつけるとちょっとださい。というか、例えば松下幸之助がこう言ったとかってさも自分が考えた言葉かのようなドヤ顔で言ってくるオジサンには心から「いや、お前が偉いわけじゃないから」と突っ込んでしまうのは女子の性である。大体、松下幸之助くらいお金持ちな鬼才に言われたら納得のいく言葉でも、ただのハゲ散らかしたおじさんに言われて納得がいくとは限らない。

 そう、オジサンというのは、なんだか名言を威張るために使いがちなのである。本来であれば読み聞きした本人の血肉になるべき、せめて、若い初学者を説得したり言いくるめたりするのに使われるべきものである。なんか、赤い看板とか出ている居酒屋で焼き鳥食べながら、トリュフォーの映画一本も見てないような、ヤンキーとギャルの区別もつかないようなオジサンにニーチェとか言われてドヤられても。お金もないのにキャバクラに来てバシャール流とかドヤ顔で教えられても。

「名言」の「引用」に関しては、さらに最近、菅野完氏*2が発言している;

数ある名言のなかでもアラフォーサラリーマンが大好きなのが、坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちの名言。彼らの多くが、子供のころに出会った司馬遼太郎作品を基に英雄像をつくり上げている。

「衆人がみな善をするなら、おのれ一人だけは悪をしろ。逆も、またしかり。英雄とは、自分だけの道を歩く奴の事だ。」(司馬遼太郎竜馬がゆく』より)など、新しい時代を夢見て幕末の動乱を駆け抜けた男の言葉は、確かに現代を生きる我々にも力を与えてくれる。

 だが、こうした言葉を盲目的に信奉するサラリーマン諸兄に苦言を呈するのが、週刊SPA!巻頭コラム「なんでこんなにアホなのか?」でもおなじみの著述家・菅野完氏だ。

「『竜馬がゆく』で描かれる坂本龍馬をはじめとして、司馬遼太郎作品では男の誕生、成長、苦難、変身、成功が非常にわかりやすい等身大の物語として描かれるため、感情移入がしやすい。でも、あくまで司馬作品は史実ではなくファンタジーです。今まで歴史上注目されてこなかった人物に新たな解釈を加え、達者な文章で描いたのだから、魅力的なのは当たり前。それをリアルな人物像として捉え、自分と重ね合わせて陶酔しているのは、現実とファンタジーの区別ができないただのアホですよ。現実の仕事の世界に勝手なヒロイズムを持ち込まれたら迷惑でしかない。いわんや政治の世界をや、です」
(「幕末志士の名言を乱用するおっさんに菅野完が苦言「現実とファンタジーを区別できないアホ」」https://nikkan-spa.jp/1420098

10年前に「歴史学のレポートで、斎藤道三について、司馬遼太郎の『国盗り物語』を参考文献として使用することはできない」と書いたことがある*3。ところで、坂本龍馬についてだが、司馬遼太郎は微妙な仕方でフィクションと歴史との区別を指示しているのでは? 「竜馬」(フィクションのキャラクター)と「龍馬」(歴史的人物)*4
国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫)

国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫)

国盗り物語〈2〉斎藤道三〈後編〉 (新潮文庫)

国盗り物語〈2〉斎藤道三〈後編〉 (新潮文庫)

でも、「現実とファンタジーの区別ができない」というのは今に始まったことではないだろう。『三国志』と『三国志演義』の「区別ができない」人というのは昔からいた筈。まあ、小説であれ出典がわかっていればまだましなのだろうけど、本当に言ったかどうかはもとより、出典さえわからないので使うに使えない「名言」(格言)の知識というのは(誰でも)けっこう貯まっているんじゃないか。人生とは重い荷物を背負って歩くようなものだという徳川家康の名言。西洋でいうと、ナポレオン・ボナパルトに帰せられている、余の辞書に不可能という文字はないという奴。これは元々はImpossible n'est pas la Francais(不可能というのは仏蘭西語ではない)だったらしい。これを知ったのは、蓮實重彦『反=日本語論』*5だったのだが、蓮實先生の本は今手許にないので、その出典を調べる術はない。
反=日本語論 (ちくま文庫)

反=日本語論 (ちくま文庫)